Since 2009
いつの間にかブログで連載中断状態だったから、気が向いたので全文掲載。
ただし、あまりクオリティのよくない作品につき注意。
2009年ぐらいの作品
扉をけたたましく打つ音があった。反射的にまばたきをする。瞼が眼をごしごしこすって痛んだ。しばらくの間まばたきをしていなかったようだった。
どんどんは止まることなく続いている。外をみてみると、どの家屋にも明かりはついていなかった。これほど寝静まった時間帯に、誰が私を呼んでいるのかさっぱり不明である。音がうっとうしくてたまらない。
席を立って、扉へと歩む。前方からの音で、足元から響いてくるものはない。前方からの音があまりにも私の耳には大音量すぎて、支配されてしまっている。頭の中もだ。先ほどからドラム缶を叩いたように響く痛みが脳髄の中を飛び交っている。そういえば私は寝不足だ、この状況で音の攻撃が加われば、そりゃあ頭も痛くなるものだ。
目前の色全てが白く抜かれた。
扉からの音が消える。頭までも真っ白になって、分からない。
耳に痛みが走る。頭を揺さぶる強烈な振動が痛い。
後方から熱風が押し寄せて体の自由を奪う。太ももに気持ち悪い感覚をつくった熱風は、私を宙に浮かべて扉に押しつけようとした。
扉が開いた。
部屋から飛ばされた。廊下に出るなり力が弱くなって、私を地面にたたきつけた。頭は、振動で痛かったものが、床の衝撃で余計に痛くなってしまった。右肩もじいんとしている。耳の痛みはゆっくりだが和らいで、火の音が聞こえる。耳鳴りがひどい。
おねえちゃん、と邪魔な音をかいくぐって声がした。私の体を揺すって頭の痛みを助長させる小さな手を、左腕に感じた。
「おねえちゃん、けがはない」
「うん、耳が痛くて耳鳴りもひどいけど、たぶん」
「よかった、間に合った。危なかったあ」
私は部屋をみた。机の上で翻訳を終えた作品が燃えている。本が爆発した。直後、翻訳したものを回収しなければと思ったものの、爆風で吹き飛んでいるはずだし、作品の隣に置いていたから、燃えてしまっているに違いなかった。
私から手を放して、ロナは燃える部屋に向かって歩きはじめた。彼女の背中が炎のせいで黒くみえた。
「Tuguminaq coknumavtil saget“ag“. Samannyt stmamanealfuigafow astogaloneRnonigviviq.Fikstel coknumavtil kuetomz astogaltoneRforecmorgug.」
ロナは術を使って火を止めようとしていた。最初の術で術式の同時施術の制御をして、次に消火、最後に損傷回復。歩みながら口にし、大きく開いている入り口を前に立ち止まる。炎を指す人差し指が明るく橙に染まっていた。
アグ、と声に出して、ロナが術式を一斉に施した。火は自ら縮こまってゆくよろしく小さくなってゆく。他の変化はよく分からないが、術式を考えれば、焼失した紙の繊維一つ一つが回復して絡み合って元の紙に戻っていっているのだろう。
彼らが死から脱したことはほっとした。安心したけれど、別の不安に気付いた。術式を使ってしまった。つまり、教会にばれてしまう。
「ロナ、使っちゃ私、処刑されちゃうよ」
「大丈夫。前言ったでしょ」
「大丈夫なわけないでしょ。ロナは今目の前で古代魔術使ったんだよ。そのことが教師たちに気付かれちゃうよ」
ロナは首を横に振った。後頭部の髪がわずかに揺れる。彼女の視線の先にある部屋は、数分前の静寂を取り戻して、何もなかったかのような表情をしているふうにみえた。
私は腕で上半身を床から離して、膝を折り曲げた。はいはいの恰好となって立ち上がった。腰を浮かべた途端に背中が痛み、はじめてひりひりする感覚を得た。熱風でやけどしたらしい。肉やら神経やらを直接羽毛で撫であげられているような感じだ。
ロナに近寄るまで受けた床からの衝撃が背中を撫であげる。足音のあとにロナが振り返って、目の前に手を差し出した。手には日中探し回った首飾りである。
「この首飾りは、魔術が出す反作用を、つまりはあのぐらぐらってするやつなんだけど、それをなくす力があるの。だから大丈夫」
「そんな、そんなこと言われたって、うそにしか聞こえないよ」
「なら、私が術を使ったとき、ぐらぐらしてみえた」
問いかけられた通りに思い返してみる。アグと告げた瞬間だ。火が小さくなってゆくのははっきりと確認している。他にあったことは。確かにはっきりとみているところからすれば、強烈な酔いはなかったかもしれない。
じゃあなぜその首飾りにはそのような力があるのか、という内容を尋ねた。ロナは簡単に一言で済ませた、私たちが使っている魔術とは別の術を使っている。詳しいことはよくは知らないが、このばつ印だけはかなり昔のものであるから、その昔に施されたものだ、とのこと。
「まあ、世界をみればたくさん魔術の形式はあるんだから、昔にはだってたくさんの術式があってもおかしくないよ。ただ、今でも解けてない術だから、かなり強力」
「そんなに古い首飾りなの」
「まあ、そんなところ」
室内に入ってゆこうとするロナをは止め、背中を診るように頼んだ。ロナは、まだ痛む、と三段跳びの大跳躍か人間大砲並みの答えを返してきた。理由を聞いてみたら、倒れた私に対してとっくのとうに術を駆けていたらしい。爆発でやけどぐらいはしているだろうと思った、と微笑みをたたえる。
全く頭の回転が速い子である。やっぱり普通の子供とは違う基盤を持っている気がする。かつ、それがどうも、私の理解を超えているところがあるふうに思えてならないのだ。ひときわ宗教に関連する卓越した知識には、もしかしたらグアミ教を研究する学者も舌を巻くほどではないだろうか。さまざまな局面において、感心するほかない。
いつの間にかロナは部屋の中に入って、椅子に腰かけていた。ロナの視線の先に、注意を無視して書き上げた翻訳が怯えている。床に落ちている、何枚もの復活した紙が私に助けを求めているようにみえた。二歩入って、最も近い紙を拾い上げた。紙に振ってある番号は八番だった。
「やっぱり翻訳してたんだね」
「私は仕事でしてる、趣味とは違うから。分かっててもやらなきゃいけない」
「それが命に関わることでも、するんだ。実際、今ので死んでたかもしれないよ」
「でも、翻訳しなきゃいけないって思ったんだ。読んでみてよ、翻訳を」
椅子の背をみつつも寝台に腰かけた。首を倒して机上に目を落としているだろう姿である。気になることは、グアミ教学者的な彼女がこの歴史書を読んで何を考えるかだ。私にはこの作品に対する明確な判断ができないため、すごいとは思えるものの、気持ちが悪くてたまらないのだ。背中の痛みが引いてくれないかなと隅っこで思いながらも、ずっと胸やけしているような気持ちだった。
彼女の手が翻訳に動いている様子のないことに気付いた。右肘が微かに動いている。ほんのちょっとだけみえる前腕を観察していると、原書を読んでいるようだった。彼女としては第三クルナシア語で書かれている原書がより読みやすいのは容易に理解できるものの、わざわざ私たちに不利になるような術式が施されているこの本を選んで利があるのかどうも解せなかった。安全性でいえば、私の翻訳ほどのものはない。
エントか、とロナが呟いたように聞こえた。おもむろに立ち上がると、本を片手で持って私の隣まで迫ってきた。
「やっぱりいくつかの術式は消えてる」
「消えてるって」
「対象確定紋が二つ。盗聴についてはぷっつりつながりが切れてるから多分消えたんだと思うけど、爆発はまだわかんない」
「切れる切れないって、どっちの方が負担は楽なの」
ロナは私の隣に座った。裏表紙を開いて、紋が刻まれていた裏見返しをみせてきた。言った通りの状況が上側に現れていた。ロナから本を受け取って紙を確かめてみると、削ったようなじゃりじゃりとした感触はなく、ちゃんとつくられた紙の肌触りだった。印字の顔料が残っている感覚もない。印刷されていないと全く変わらない状態である。
「ものによるよ。切れないで持続することが前提だと持続する方が楽だし、単発が前提の術式はそれっきりで。逆のことをすればその分負担が大きくなるよ」
「じゃあ爆破の術式はどうなの」
「爆破の動詞知らないの」
「いや、三つは知ってるけど、術式で使える言葉じゃなくて」
「えっと、爆破だと、術式として使える言葉は七つとか九つあるし、持続か単発かもばらばらだから、こうやって判断しなきゃいけないときは一番難しい部類」
重要なものは下に残る二つの対象確定紋。これらがどのような効果を発するかである。盗聴は焼失したらしいのでどうでもよいが、この二つに関してはロナさえも判断できていない。これでまた爆発が起きたら面倒だ。それに、術式の意味までもが不明の対象確定紋が一つ、もしかしたら二つ残っている、これはこれで爆発が起きないという保証になるものだが。
「やっぱ下のは分からないんでしょ」
「ちょっとね、ぜんぜんこれだけじゃ見当つかない。塗りつぶしたりするのも危ないし」
「術を無効にする術式ってないの」
「この本にかかってるから無理」
ロナは私の腿の上に手を伸ばした。紙の上端に中指の腹を密着させて、指を払う。著者に関する記述が飛び上がって、あの模様が描かれている場所に到着した。
これが古代魔術なのか。ぴんとこない。私が知っている古代魔術は言葉による詠唱の術式だけだ。今までこのような模様をみたことはないし、これが術式だと言われても意味が分からない。これがどうやって術を発動させるのだ。
「これ、古代魔術なの」
「うん、やっぱ知らないよね」
「やっぱって、それほど知名度低い術式なわけ」
「だいぶ昔に教会が焼いちゃったから、知ってるのはごくわずかな術式」
基礎となる紋に加えて、それぞれ文字と対応させた模様を規則にそって描くのだという。それが魔術第二術式だとロナは続けた。
分からない。言葉だけで施す術式が第一術式であることは何となく分かるのだが、文字をどうして模様と対応させているのか、その段階で分からない。言葉だけで十分だ。こんなにも面倒な記号を書くよりも口で言ってしまうが簡単だ。
模様を見下ろして凝視してみた。目がちかちかしてたまらない。線の太さはてんでばらばらのようにみえたが、ちかちかを耐えていると、太さがばらばらでないことを発見する。一つの形ごとに太さが違うだけだった。でも、それから意義をみつけ出すことができない。
私の表情が困惑したものとなっていたのかもしれない。私がみている世界の中に手が飛びこんできて、私から本を取り上げた。ロナが正面に立ち、両手で支えながらもへそを遮っていた。
「ねえ、おねえちゃんはどうしたいと思ってるの、教会のことで」
教会のことと言われて一瞬何なのか分からなかった。それほどまで異端の話が私の中で隅に追いやられていたようだった。それほどまでに、自分が異端扱いされていることへの自覚を失っていた。当然、教会とどうやりあうかは、翻訳に関する契約以外に考えていない。
「まだ考えてないや、こっちにばかり頭がいってたから」
「自分の命よりも仕事が大事なの」
「仕事は仕事。お金で頼まれてるんだから翻訳しなきゃいけない。それに翻訳自体、嫌いじゃないから」
翻訳する覚悟があるからそのぐらいのことは考えていると思っていた、ということをロナが漏らした。その声が妙に暗くて、ロナと付き合ってきた中で最も低い調子だった。ひょいと背けて後ろ姿を私にさらし、壁に向かって歩いていった。宙に浮かせた足底を残像が残るほどでたたき落とし、何か主張したげな足音を立てていた。その主張が三度響いて、彼女は振り返った。
「あなたの魂はそのお金よりも安いの」
「いきなりどうしたの」
「死ぬことよりも翻訳してお金をもらうことが大事なんでしょ。だったらあなたという存在は、報酬よりも安いってことになる」
「ロナ、何が言いたいの」
話の前提となるべき部分が分からない。ロナが知っていて私の知らない何かが、私たちの距離感の中にある。この子の目をみても、訴えてくるものを感じ取ることができなかった。何も示そうとしない目が怖い。むしろ私に訴えても意味がないとあきらめているのかもしれない。
「なんでそんなに緊迫感がないの。普通だったら死んじゃうんだよ」
「正直、あまり実感がわかないんだ。その、言われたときはこの世の終わりみたいな感じだったけど、今になってみると、何だか、ね」
「じゃあこのまま死にに行くの」
「これから考えるの」
恐ろしい視線から逃げて、窓に顔を向けた。空は真っ黒な光のない世界ではなく、褪せた紺色のような色合いだった。夜中を通り超えて夜明けに向かっているらしかった。
異端から脱する方法はいくつかあると思う。逃げるか、異端扱い自体をなかったことにするか。単に逃げるのであれば徹底的に逃げ通さなければならないし、異端扱い自体をなかったことにする、ということは大がかりなことを完璧にこなさなければならない。上手く、とはいえども、手段がみつからない。ただ一つ皆殺しという発想がひょっこり顔をのぞかせたものの、私が行うことが考えられなかった。血だらけの手やら服やらは嫌だ。あまり意欲はわかないが、体を使って教師たち買収することも手としてはありだ。
迷走する考えが前提に舵を向けた。私が本当に異端として扱われているのか。教師は行為に対して厳重注意でとどめると告げたのは紛れもない事実である。異端扱いだと主張しているのはロナだ。教会が厳重注意で収めるわけがないと、何かしらの手段を用いて私を『粛清』すると言っている。
どぅしんという音が私を遮った。追いつめるかのように、呼吸のひきつった音がした。顔の向きをもとに戻したら、ロナが女の子座りをして、眉をハの字にしていた。息のひきつりにあわせて頭も揺れている。
両手でできただんごをあごの下に抱きかかえた。どうしてなの、と途切れ途切れに言葉した。
「なんでおねえちゃんは必死にならないの、どうして必死になってあたしに頼みこもうとしないの、そんな普通の顔してるの」
「どうしてそんなこと言うの」
「だって、だって、いろんな人が殺されそうになって、それで頼みこんできて、祈って、痛いぐらいにお肉を掴んで、なのに、おねえちゃんは、ぜんぜんそんなそぶりないし、分からないよ、分かんないよ」
ロナは私に後頭部をみせながら、脈のおかしい言葉を並べている。何度も首を横に振り、声を発している。はじめは話していることを理解できていたが、次第に言葉がつぶれて、意味が分からなくなった。甲高い悲鳴にしか聞こえない。
落ち着かせなければならなかった。ロナ自身が混乱してはわけの分からない話が余計分からなくなる。なだめて、一つ一つ話を聞かないと、私とロナとでやりあっていた会話が分からない。全く知らない語族の言語を読んでいるような気分。
ロナを落ち着かせようと声をかける。ロナの声が湧き上がって聞き取れるようになるのだが、私がその声を受け止めることができない。彼女の不可解な言葉はまたぼやけて聞き取れなくなってしまう。だが声をかけると、再び盛り上がり、それから水のように渦を巻く。
言葉の波を四回繰り返しても彼女は錯乱状態にあった。言葉だけでは足りないと思って、ロナを抱き寄せて、震える体を胸に押しつけた。顔だけでなく、体までもが震えている。強い震えだった。ぶるぶるぶるぶるぶぶぶぶぶるぶる。寒い夜に薄着で佇んでいても平気な彼女が、私の腕の中でわだわだ震えているのだ。
私は、隣の寝台で寝ているロナの寝顔しか、知らない。ロナの錯乱ではっきりと分かった。彼女にはきっと一つの線が思いの中に通っていたのだろう、言っていることは似通っていた。ただ、私が理解できなかっただけだった。
ロナが難しい言葉を使っているわけでもない。彼女が喋っていたのはムクアリア語だった上に、その中でも平易な語彙ばかりである。私に理解力の落ち度があるとは考えられない。
しかし事実、分からない。分からない、というのも、変化球のような『分からない』。会話であれば必ずある、目的だとか、話題だとかといった後ろにあることがぜんぜんみえてこなかったのである。
何が背景として存在しているのだろうか、と考えてみても、私と彼女との関係だけではみえてくるものがなかった。出会ってまだ日も浅いのだから仕方がないといえばそれまでなのだが、その浅い関係で、ロナは私に広大な背景をさらした。
ロナはとりみだした中で、いろんな人は頼みこんできた、と言っていた。彼女の周りに、不特定の複数がかつていたことになる。それらは殺されそうで、ロナに頼みこんでくる。恐らく彼女を頼った人々は異端とされたと考えるのが、私たちの薄い関係の中では分かりやすい。
問題なのが、どうして異端とされた人々がロナを必死になって頼るか、である。
ロナの古代魔術を頼っている以外に選択肢がみえない。だが術式を用いて何をするのか。古代魔術で用いることができるのは物理的な術式である。それを用いて異端に立ち向かうとなると、考えられるのが、間接的に教会の手を阻むことと、教会を攻撃することぐらいである。
阻むにしても一時的な手段で効果は薄いし、教会を攻撃してしまえば異端駆除の格好の口実となる。頼ったって結局は自分に対する害となる。だから、すがってみたとしても、そこに意味はないはず。
ロナに救いを求める行為には、対教会の理由以外の何ものかが存在する。たくさんの人が、それが無意味なことだとは気付かず、無心にロナを求めた。どちらかが正解だと睨んでみた。そこまでは良かったものの、後者ではこれ以上考えることはできない上に、考証ができない。だからといって、教会対策以外の理由があるとしても、教会という重要な要素を排除してしまったら、他に軸となる要素がない。
詰まった。私の脳内回路が焼けついて上手く働かなくなっている。忘れかけていた頭痛が湧き上がってきて、睡魔までもが駆け寄ってきている。眠い痛い。眠気がやってきても痛みで魔が退きかける。けれども、やはり生理現象は強いのか、頭痛が負けてばかりである。それでも一向に眠気が強襲してこないのは、私の無意識が頭痛に味方しているからか。
頭痛や眠気はあれど、ロナについて考えることが私にはどことなく心地よかった。そういえばここ数日、翻訳以外で考えていることといったらロナばかりだった。歌のことなぞ考えもしていない。
机に目が留まった。相変わらず紙の束と本二冊が積まれていて、加えて万年筆とその墨。ああ、翻訳しなきゃいけない本がもう一冊あった。厚さはエント著の書物の三分の一にも満たない厚さで、縦横の寸法は一回り小さい。それほど時間をかけずに作業は終わるだろう。寝てからやるのもあれだ。最後の原書をやっつけてから、それからにしよう。
終わって寝ようとしてみるが、やはり私の無意識は頭痛と手を組んでいる。背中を向けていても窓布越しに飛びこんでくる、柔らかな光のあたたかささえも意識の敵だ。どうしてもロナにすがる人たちの問題への答えを突きとめさせたいようだ。私としては、もう答えなんかみつかるわけがない、と答えが出ているのに。
意識側の対抗策として、もしロナの言っていることが真実だとした場合にどう教会と話をつけるかを考えることにした。本の返却は当然である。焦点となるのは、報酬、それと会話戦術だ。報酬はこの際あっち側の言い値で受け入れるほかない。
言い値を受け入れても、話術で何とかできなければ意味がない。無難に、ではだめだ。私から注意を逸らせなければ失敗である。最も簡単な方法は別の事件が発生すること、もしくはさせることである。人脈のない私には意図的にできないことで、また、事件が発生するような偶然を期待するのは無謀もはなはだしい。私がグアミ教を信仰していない、と言っても容赦しないと言っていたから、きっとこの路線は無理である。いっそのこと、魔術を発生させたこと自体をあいまいにしてしまおうか。意図的にやったわけではなく、偶然だと主張する。何が起きたのか正直に言うと分からないと媚びれば何とかならないものか。
ばからしい。教会という大きな組織相手に、たった一人の人間が対抗できるわけがない。教会に対抗できるとしたら、それは神グアミだ。信仰対象であるグアミのひと言があれば、全てひっくり返るだろう。ただ、グアミと一般人を区別する方法があるのか。グアミは十数世紀以上昔の存在とされているわけだから、現在においてはその足跡を書物でしかかいまみることができない。
グアミが書かれているといえば、それは宗教史を取り扱った書物か、それともグアミ教の経典、グアミ教に関する宗教書ぐらいしかない。グアミが神であるというのはそれが神だと信じている人がいるからであり、そのようにしている書物ばかりあるからである。グアミが実在するとすれば、それは人で、つまりは一般人と変わらない。
グアミと私とを区別する方法はない。グアミ教経典は神の奇跡と格言、宗教史書では宗教の発生と宗教闘争の事実関係、宗教書では神グアミの肯定。昔は今よりも教会の力が強かったという記述が目立つから、厳しい検閲があったに違いない。その中で、グアミがどんな姿なのか、は排除されるべき情報とみなされた。
私は寝台から下りた。靴のかかとを踏んだままの状態で窓へと歩いた。窓から見下ろせる通りを左から右までみてみる。開店の準備をしている店がちらほらと見受けられ、歩く人もあまたいる。もうそんな時間らしい。
机の横に置いてあるかばんを前にしゃがんだ。紙をまとめる帯を探して手を押しこむ。かばんの中には雑にものが押しこまれていて、突撃する手の指先が圧迫されて仕方がない。果たしてどこに入れたか。以前に使ったのは、二つ前の町で依頼された古ムクアリア語にて書かれた長編小説、三巻にもわたる本を仕上げたときだった。そのときに服を全部入れ替えたからよく覚えている。そうだ、出かける前に体を洗って着替えなければ。湯を浴びれば気分がすっきりするだろう。
服を替えた私は通りを歩いていた。ロナはまだ起きる様子をみせなかったらそのままである。一応は書き置きを残してきたが、彼女が起きる前には戻ることができるはずだ。原稿と原書を渡して報酬を受け取る、これからのやり取りにはこれしかない。
通りに蒼い外套を揺らす教会関係者の姿をみることができた。私には気味が悪く感じられた。どういうわけか、何度も目が合うのだ。視線が一致するなり決まって相手が目を逸らし、じっと観察していると、再び顔を合わせることとなるのだ。
重要古書を運搬しているという理由で教師がずっとついてきたことはあったが、あのようなそぶりはみせなかった。私よりもむしろ、通りを歩く一般人に睨みを利かせていた気がする。
挙動不審な外套が二人、右前方と左前方にいる。歩調が揃っていて、私との距離を一定に保っている。私の前に立っているのだから、こそこそと隠れて何かするという様子でもない。ただ気になる、といった感じか。それにしても気にしすぎだった。
その二人の風貌が若手の下っ端でないことは確かであり、ちょっとした疑問でもあった。両者とも髪に白髪が交じっており、その上、なかなか偉い人が着用する外套をまとっているのだ。袖にある地位を示す線が、右側は二本、左側は四本ある。確かに私は教会から厳重注意の処分を言い渡されたわけだが、それに対して地位の高い関係者が注目するほどのことなのだろうか。
蒼色は道を曲がってどこかへ行ってしまった。正面の少し奥に教会がみえる。二人は教会へと向かっているわけではないようだ。それか道を避けたのかもしれない。教会への最短の道は、どういうわけかたくさんの人たちでにぎわっていた。止まることなく歩けるほどの隙間はあるが、急な変化である。教会で何か集会でも行うのか。
教会隅の小さな扉から中に入ってみると、思った通り集会を行うらしく、幾段も高くなった講壇ではとある教師が経典の準備をしていた。他の人は掃除などの雑務をこなしていて、彼らは服装からしてまだ位をもらっていないようだった。そして教師長の姿はなかった。それほど重要な項目を説教するわけではないということだろう。
教会の奥に移動し、教師長室の扉を二回叩いた。男の声が扉を貫通してきた。中に入り、机の許へ歩いた。机手前の空いている場所に原書と翻訳を置く。
「ご依頼の翻訳は、以上で全てです」
「ご苦労だった。しかし、あなたの翻訳能力はさすがですね、あの量をこんな短期間で処理してしまうなんて」
「私には翻訳しか能がありませんから」
「翻訳しか、ですか」
教師長は机の引き出しをあさり、何かを、形状からして恐らく鍵だろうそれを手にした。もう一方の手を椅子の肘置きに這わせ、腰を浮かせた。壁に沿って歩きはじめた。足どりは、堂々としているような、ゆっくりとしたもので、私と一定の距離をとっているようにもみて取れた。
足の動きが棚の前でとまった。じゃ、という音のあとに、かちん、という音が、長の背中の向こうから聞こえた。立て続けに扉が開いた。左側の扉だけを開けて、ものを取り出して、扉を閉めた。またもや二つの音。
振り向いた彼の手には一つのやや膨らんだ封筒と紙が掴まれていた。紙は独特の、わずかに黄色がかった紙だった。彼はそれを報酬だと、私に差し出した。紙には『明細票』と文字が打たれ、依頼主の名前と報酬金額、内訳が記されていた。
報酬が多かった。私ははじめ十四万ムクアリアエーゲンを報酬として要求した。当初よりも翻訳数が増えたとはいえ、二十六万ムクアリアエーゲンまでつりあがるわけがない。内訳をみてみても、宿代を報酬内に含めるとしているが、それでもあまりが出るはずだ。
「あの、この報酬は」
「その報酬では不満ですか」
「いえ、そういうわけではないのですが、高すぎやしないかと」
「むしろ十四万ムクアリアエーゲンでは安すぎると思っていたぐらいですよ、このぐらいが妥当です」
教師長はただ一つの出入り口前まで歩いて、私に振り返った。次にどこへ移動するのかと思ってはいるのだが、思いに反して彼はなかなか動こうとしなかった。報酬を受け取ったことだから早く戻りたい、そんな私を阻止するような動きかのようだった。
あなたはすごいお方だ、と正面の男が言葉を漏らした。左手で後頭部をかきつつも、口元をにやにやさせていた。彼の落ち着いた宗教者らしい印象とは異なる雰囲気が、冷えて白くなった空気のように漂いはじめた。
返すことができる言葉がみつからない。私の無意識はどのような状況かを察知したのか、心臓が騒ぎたてていた。封筒を持つ手で胸を押さえて、落ち着かせようとしてみるが、それに反して騒ぎは大きくなっていった。
「何が、言いたいんですか」
「本来なら、あなたはここにいるはずがないんですよ」
「爆発」
「あなたはあの禁書に施されていた爆破術式によって即死しているはずだった。なのにこうやって生きている、すごいじゃありませんか」
「あなたがしかけたんですか」
「いえ、あの本にはもともと爆発の術式が施されていました」
教会は私を殺すつもりでいる、というロナの声が騒ぎの中から湧き上がってきた。彼女が言っていた通り、教会は私を殺そうとした。厳重注意で済ませると私を処分した張本人が、さも殺しそこねたように言うのである。
ロナが言う通りだった。教会は、私を殺したくてたまらないのだ。厳重注意ということで表は済ませて、実際には殺そうとしたのだ。
「私は例の件については厳重注意ってことで処分を受けたはずです。つまり、私に殺される理由はないんです」
「それは、魔術を一回使ったという行為に対して、です」
「それ以外に何もないじゃないですか」
「魔術を一回使った時点で、あなたは異端者です。行為に対する処罰はすみましたが、異端であることに対しても処罰しなければなりません。異端者に対してする処罰は、神に救われることのない死のみです」
ロナが言っていたことも、私が思っていたこととも違う。教会には異端者という存在、排除するという大義名分があった。存在を処罰対象として教会が判断していることを、私は気づくことができなかった。
どうすればよい。逃げ道はふさがれている。古代魔術を用いて対処するとしたって、全力を出したことはないが、私の力は弱い。人一人焼くことも難しい。強行突破するにも、術式が分かるほどの人間だから、何かしらの術式を使ってくるかもしれない。使われる方が危険だ。知らない言葉で詠唱されたらおしまいだ。
私は死ぬのだな、と思った。
教師長が、古代魔術でできないことは何か、と突如問うてきた。そのようなことは知らないと跳ね返すと、彼はこう問い返してきた。
「グアミはどうやって、あの三人を殺したのでしょうか。ただ術式を囁いて、一瞬にして命を奪う。さて、どうしたのでしょうか」
三人と聞いて、マグリアたちを思い出した。この人もあの書物を読んでいるらしかった。目の前にいるのだから爆発を引き起こしていないのは確実だ。その手法が気になるものの、この際どうだっていい事柄である。時間稼ぎをしたとしても無駄なのは目にみえているから、期待できることはない。
「私は一つの結論に至ったのです。水分です。人体の水分をいじることによって、つまりは凍らせたり蒸発させたりすることによって、人を殺すのです。爆発的に水分を蒸発させることによって、人をこなごなにするのです。マグリアは肉体さえも消滅しました。これは恐らく、水分が蒸発する際の温度をすさまじいほどまで高めた結果だと考えられるのです」
教師は自らの言葉を展開させながら、じわりじわりと歩み寄ってきた。後退りしてみるも、二歩で机に邪魔をされた。机の上に手を伸ばして原稿を手にし、投げる。追うようにして古書も投げた。原稿は飛び散るだけで、古書は男を捉えることはなかった。本が壁にぶつかって落ちた。
手が届く範囲に投げられそうなものはない。男に触らないでどのように動きを止めるか。たぶん彼のどこかしらに触れてしまえば、術式を使われてマグリアのようになってしまう。触ることなしに、動きを封じこめることが生きるための条件だった。
教師長の後ろにある扉との間隔が開いている。気付いた途端に、新たな道が開かれたように思えた。ぎりぎりまで寄ってくるのを待ち、逃げるのだ。そのことを考えれば、どちらかに走り抜けるだけの空間が欲しい。
ああそうだ、と教師長が脚を止めた。
「確か、あなた以外に古代魔術を使った人がいましたよね。その人のことを教えてくれませんか」
「言っても言わなくても、私は殺されるんじゃないんですか」
「何を言うんですか。教会のために異端者となり得る存在を密告したことになるんです、もちろん免罪ですよ。それ以上にいい処遇にしてもいいくらい」
それ以上の処遇、とはつまり教会はロナのことを知りたがっているということである。私を殺すつもりでいる人間が言うせりふとしてはおかしい。
これは目的がロナにあると白状しているようなものだ。私はただ強大な力を持つロナの情報源として利用されそうになっているに過ぎない。免罪という言葉も信じられない。口止めとしてついでに殺されるのが小説でよくある形である。しかし、私を殺そうとしていることには変わりない。はったりで脅しているわけでもなさそうだ。
「あなたがたにはもうみつけることはできませんよ」
「どうしてですか」
「あの子はあなたがたが思っている以上に頭がいいのでね。それに、彼女のことだから、このことを国際社会に訴えることもするでしょう。国際社会では魔術はごく普通のこと、それが使えるとの理由だけで人を殺したんです、どれほどの運動になるか」
適当なことを言って、教師長が近くに寄ってくるのを待つことにした。隙をついて逃げて、ロナも引っ張ってゆく。そのまま隣の国に逃げ切ってしまえば何とかなる。今にも生まれるだろう一瞬がこの先を占うと思ったら、緊張感が胸の中を圧し固めていった。
「異国の異教徒が、グアミ教に口出しする権限はないはずです」
「違いますね、その逆ですよ」
「何を」
「あなた方は、グアミ教でない人を異端として殺そうとしているのです、現にこうやって。この点に関しては、誰もが口出しできるはずですよ」
男はすると私に指を突き出した。その指先は震えていて照準を定めることができていないらしかった。その奥にある顔は真っ赤で、唇を四角に開いていた。その目もまた赤くなり、眉毛がつりあがっている。急に攻めこまれて興奮状態に陥った、というところだろう。
今だ、と思ったと同時に教師の横をすり抜けた。急いで部屋から出るのだ。ある程度距離を取らなければ術を発動されてしまう。扉を閉めさえすれば、ひとまず危機を脱したこととなる。
扉の丸い取っ手を掴んだ。むだに力をこめて回す。手汗がとめどなく出ていたのか、手が滑った。手を拭ってから取っ手を回した。動かない。
取っ手のてっぺんを探ってみるも、内鍵はない。
術式で閉ざされてしまった。一瞬のうちにそう確信した。どうしたらよいのか分からない。私の計画が崩れ去った瞬間に、背中を教師長に向けてはならないと思った。取っ手を掴んだまま彼を正面にした。
長の顔はよりひどく赤さを増していた。しかし四角かった唇は弓なりに歪んで、口角が奇妙なほどにつりあがっていた。怒っているのかあるいは笑っているのか、どちらともとれない表情だった。
怖いとは思った。けれど同じように、もういいのかもしれないとも思った。私は古代魔術が使えるからと親というべきも分からない存在に捨てられ、今は異端だと教会に殺されそうになっている。
しかし、それではロナはどうするのだ。
ロナだって一人だ。私しか頼る人がいない。彼女は強いけれど、これから淋しいまま一生を送っても大丈夫なわけがない。彼女のことに運よく気付けたのだから、私のような生活だけはさせたくない。意地でもこの状況を打ち破らないと。ロナと一緒に逃げなければならない。
扉に施された術式を解除できそうな方法は二つしか思いつかない。正反対の術式で打ち消すか、扉そのものを壊すか。正しいやり方は知らない。扉から考えを離せば壁を壊す手があるけれど、どこに出られるか分からず危ない。
教師長が大きく口を開けた。開いた口がちょっと閉じて、術の詠唱がはじまった。
男が十七音節を言い終わる前に対策を講じなければならなかった。時間にして二秒足らずの隙間。投げられそうなものがない。
最後の五音節が解き放たれようとしている。知らない言葉を使っていて、術式の詳細が分からない。体から水分を奪う術式だとは思う。しかし推測したってもう死ぬ。
取っ手が半分ほど回転した。いつしか腕に強い力を入れていたのか、打ち止めとなったときに大きな音が出た。閉ざされたはずの扉が開いた。
教師長の、術式を唱え終えた口がぽかんとしたものとなっている。彼は確かに術を施した。五・七・五の音節でちゃんと聞いている。術式が正しくなかったのかもしれない。彼がマグリア殺害の術式と確信していたそれが、実は何の意味も持たない音の羅列だった、というオチかもしれない。