にの、にの?

Since 2009

とっぷぅあばうと小説あり□ 同人誤字脱字案内メール

オリジナル作品

かみになれない

いつの間にかブログで連載中断状態だったから、気が向いたので全文掲載。
ただし、あまりクオリティのよくない作品につき注意。
2009年ぐらいの作品

連載

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 - 継承 3.0 非移植 ライセンスの下に提供されています。

濡れた髪を拭いながら椅子に座った。丸一日寝てしまっていたらしく、目を覚ましたら辺りは暗く、だからといって外から聞こえる店の賑やかさもなかった。起きたばかりのとぼけた頭は、時間を逆行したと勘違いしていたが、頭の整理がひとまずついたので、ついさっきまで湯を浴びていた。ロナは寝台と寝台との間で寝息を立てている。

床に突っ伏しているロナから、反対側の机に目を向けた。本が二冊、中央に積んであった。

要求された翻訳はあと二冊で、いつもの調子でやれば明後日には完了する。なるべく早く出発したいが、しかし、ロナの処遇を何とかしない限り、私としては出発したくなくない。なるべくこの教会からは離れたいが、気がかりを残したくないのもまた望むものだった。どうにかして彼女を置いてくれる場所を探さなければならない。

このようなときに最も楽なのが教会という選択肢だが、連れてゆけば能力がある人間ということが分かってしまう。この子自体、教会なんてごめんに決まっている。だからといって連れてゆくのも、彼女の人生を振り回してしまうことになるし、ここに残すのも、彼女の身内をみつけてようやくみえてくる可能性だ。

仕事を意味する言葉のBalecccが浮かぶ。私の心が仕事をしろと訴えている。確かにここには仕事をするためにやってきたのだ。別に人助けをしに来たわけではない。まず仕事をして、それからロナの心配をすることにしよう。

ロナの影響力はどういうわけか強い。仕事がはかどらない。どうしても翻訳家の思考にロナの歪んだ姿が邪魔をしてくる。私の記憶には、あんなにも恐ろしいがために無理やり覚えさせられてしまったのだろうか。かと考えると間をおかずにして、教師長の表情が浮かんでくる。宣告をしてきたときの、至って平穏そうな、だが笑っているわけでもない微々たる表情である。彼の表情から私の内面に考えが転移する。ロナの力に怯えて、教会の能力に恐怖して、再びロナの力にびびる。

私は力づくででも原書に意識を向けようとした。今度の本ははじめから第三クルナシア語にて書かれた文章で、古代宗教史を主題とするものだった。歴史的価値はかなり高いと思う。目次をみる限り、はじめに神グアミを中心に据えた歴史記述があり、次の章にグアミ教自体を中心に据えた記述がある。

翻訳しなくては。ムクアリア語にしなければ。この文章を現代ムクアリア語に換えるのが私の仕事なのだ。洗脳するように同じことを考えて、暗示させようと試みる。

これが案外上手くゆくものらしい。徐々にロナの勢力がしぼんでゆく。脳内に翻訳が通るだけの広間が用意できるなり、私の言語に対する知識がたちまち押し寄せて占拠した。原書に発生している文章を改めて表現しなおすことができるようになった。読みながら意味を理解できるようにもなった。

十ページ近くを二分間程度の感覚で読み進めた。手も動きが激しい。グアミという存在がいかにして生まれたのか、そのグアミが世界の人々に安心と麦を分け与えるための準備をはじめるところがつづられている。感心しながら読むべきは、グアミが世界をつくったわけではなく、グアミは『世界』からしてみれば外から入ってきた人であるとの文面だ。民族の対立による、黒い血を鮮血で洗うムクアリア国古代周辺史を象徴しているようだ。

しかし、この形式の宗教史書ははじめてみる。私が読んでいた部分は、大概のものでは、グアミが現れた、グアミが人々に麦と安堵を与えた、というあっけない説明で済ませてしまっている部分だ。対してこれでは、まだ続きそうである。

一番しっくりとくる言葉を駆使して、グアミが麦を人々に渡す部分までの翻訳を済ませる。万年筆を蒼墨の瓶に立てかけ、天井を仰いだ。壁紙は古くなって、色がすっかり茶色っぽくなっていた。ふう、と口を尖らせて息を飛ばす。

顔を上に向けた次は、腕時計に向けた。針は音を立てながらもまだ動いている。ずっと腕を動かさずにいた割には働いている。傷だらけのそれを指先で撫でてから、私は腕を振った。歩くような、ゆったりとしたふりこ運動だった。

視線は自然と本に向かっていた。この本、なんだか妙に落ち着く本だと思った。宗教書独特の淡々とした、冷たい文体とは異なる。難しいのは確かに難しいけれど、比較的やわらかな文体でつづられており、神であるグアミに対する描写が多い。だからといって内容はかなり細かい。真偽はともかくとして、その細かいところに温かさを感じ取ることができた。

奇妙な安堵感は、同じに恐怖だった。古い本の匂いに落ち着きを感じたことはあっても、文章でわくわくしたことはあっても、文章で落ち着くことはなかった。気を抜かずに仕事として読んでいるにもかかわらず、羅列は私を落ち着かせる。

背中からの、おねえちゃん、との声に上半身が震えあがった。椅子が飛び跳ねけたたましく叫ぶ。木材が割れてしまったかのように背がきしんだ。

「ぬぇ、どうしたの」

「この本でちょっと分からない言葉があったから」

「あ、うん、どれ」

ロナは、これ、と声を発しながら文字羅列のひと単語を指差した。彼女が指差した単語は、あまり使われることのない、かたい言葉だった。押し黙るという意味だ。日常的な使用頻度は多くない常用外語とはいうが、常用外にしては頻繁に、際立って小説に出現する語である。覚えていても損はない。はたして専門書の中で、どれを押し黙るのかはさっぱりだが。

「押し黙るって意味だよ」

「ありがとうおねえちゃん」

さてロナが寝台に戻るから私は作業を続けようと考えたが、彼女は一向に動こうとしなかった。動かないどころか、目がいつも以上に鋭い。動物が天敵をにらみつけているかのような目にもみえるし、小説の描写でよくある戦士の目のようにも解釈できた。

ロナが自身の唇に人差し指を当てた。唇の間からしゅうと音を吐き出しながら私を睨みつける。少しばかりくすんだ紅から指を離すと、記録に使う紙と万年筆を、これもまた指で求めてきた。机の上に紙を用意し、筆を渡す。はい、と言葉と一緒に送ったら、私の口にロナの人差し指がちょんとくっついた。首を横に振って、万年筆を受け取った。

蒼い墨が紙に線をつくり出し、墨が乾燥して次第に黒くなってゆく。最終的に出来上がったのは達筆なアデュマ・マトロウィリホルの羅列だった。子供とは思えない筆の運びだった。

三つの文章が紙につづられた。今、盗聴術式が施術されている。施術媒体はその翻訳している本である。喋ったら全部教会に伝わる。

思わず声を出しそうになって、慌てて口を全力で押さえた。胸の緊張が完全に抜けるのを、待って、抜けた。声止めを取り外して、筆を彼女から戻してもらった。私の手が激しく震えて、筆先の蒼墨が床に一滴、垂れた。長い間私が持っていた筆をわずかな時間ロナに渡していただけなのに、一週間も放置したかのように冷たくなっていた。

どうして、と私の子供が書いたようにみえる字体を達筆の下に置いた。

あなたを殺すため。きっと私のことも殺すつもりだと思う。

殺したりしないって、教会側からは保証を得た。

そんな口約束、教会が守ったためしがない。紙の契約書をつくっておくべきだった。

どうして口約束だって知っている。

教会がよくやる手だ、異端者をあぶりだすための。不平を言ったとしても、殺してしまえば証人はいない。そもそも、異端者とされた時点で信用されなくなる。

なら一緒に逃げよう。

教会からの仕事を放棄することは、自らが異端者であることを証明する。仕事をしても、仕事をしなくても、あなたは殺されてしまう。

私の文字はどんどん幼稚な活字体に近づいていった。対してロナの字は、どんどん乱暴な形状になっている。文字だけをみたら、人格の年齢が正反対のようにみえてくる。彼女の目は私をみることなく、私の正面にある原書を突き刺していた。文字の一つ一つを焼き切ってしまいそうなほどだった。

筆をひったくられた。本の後半から裏見返しまでをみてみて、と筆先が紙を介して訴えかけた。

私は革製本のそれを手に取った。翻訳済と未翻訳の境となる見開きに紙を挿んで、紙を後ろへと流してゆく。文字が紙面を占領していて、変に異常ととれる点は見当たらなかった。本文の途中からどばっと束になってとなってこぼれ、指が止めているのは著作にまつわる文面の頁だった。次の一枚をめくってしまえば、裏表紙とくっついている裏見返しのみとなる。立ち止まることなしに、私は、見返しを視界に登場させた。四隅に円とばつ印を組み合わせた柄をみつけた。この柄、対象確定紋だ。今までみたものの中ではとても簡易な部類に入るつくりだが、これ以上洗練された形状を持つものはない紋章だった。これを対象の基準点として盗聴術式を施術しているのか。

分かるでしょう、とロナが冷静な字体を並べた。本を閉じて、うん、と彼女に顔で答えた。

あと、殺すって告げた理由をもう一つ言わせてほしい。

何なの。

この本を翻訳した時点で、あなたは異端者になる。

どういう意味なのか教えてほしい。

この本は異端者によって書かれた書物、つまり手にすること自体が教会にとっての処刑理由になる品物。それを翻訳したりでもしたら、殺されない方がおかしくなる。

どうしてそれを黙っていた。

私が気付いたとき、つい数分前のこと、そのときには、もう翻訳していた。四つの紋章は恐らく、一つが盗聴目的、残り三つのうちどれかが本を開いたか否かを判定する術式に充てられているのだろう。残りの二つは知らない。

そもそもなんで、異端者が書いたものだって分かる。

表紙の作者の名前が切られているのに気付かないのかい。

私は再び手にとった。裏表紙を上にする本をひっくりかえして、表側の表紙をみる。金色に打ちこまれた題号の下に、確かに切り刻まれた一帯があった。文字をつくっていたはずの金は全く姿を失ってしまっていた。異端者の書物はこうやって存在意義を拒否されるのか。だが、どうして内表紙には作者名と思われる羅列があったのだろう。

筆で尋ねてみると、異端が書いたとはいえ、どの異端者による執筆かを識別しなくてはならないという都合で内表紙は処理をしなかった、そう筆で返してきた。それに紙が当時貴重だったから、再生しやすいよう配慮したのではないか、とも追加して返してくる。

彼女は一体どれほどの知識を小さい体の中に蓄えているのか、ロナの目をみつめて思った。私以上に宗教の知識を持っている。アデュマ・マトロウィリホルも、第三クルナシア語、第三は少なくとも魔術詠唱文法であるが、彼女はそれらをも理解している。だけれど現在のムクアリア語は子供と同じ程度。普通は、この言葉はあまり良いものではないが、逆であることが当然でなければならない。

今更になってその重大性を感じ取れるようになってきた。大昔のことに、ロナはあまりにも知りつくしている。アデュマの語彙などわずかな間で覚えられるわけがない。私が辞書なしで翻訳ができるのは、幼少期に死に物狂いで図書館通いをして、文法から何でも全てをを覚えたからであって、十年近くかかっている。十年も生きていないだろうこの子が、私並みの語彙を習得できるとは思えない。それに加えて第三クルナシア語だ。

ロナから筆を優しく受け取って、外へ散歩に出てみないかい、と紙に記して持ちかけてみた。名案、を表す単語たちが提案の下に記された。

人の気配がない場所まで離れた。街からは最低でも三十分は歩いている。ロナについてゆくがまま歩いていったら森の中に入ったのだった。私にはもう土地勘なぞ存在しない、もしここで彼女に放置させられたら、町に帰れない。

その森が突然開けた。樹々が急に切り株となり、切り株に取り囲まれるようにして、一棟の建造物があった。石造で、あまり手入れがなされていないようにみえるから、これは遺跡なのだろうか。ただ、金属製と思われる扉は健康そうだった。ロナは扉を開けながら私を手で呼ぶ。口角が少しだけ上がっていた。

中に入ると、まっくらだった。しかし次の刹那、横から光が侵入し、それがどんどん縦に大きくなっていった。光の束の奥に、ひものようなものを引っ張るロナの姿があった。

「ここなら盗聴の術式は影響しないから、話しても大丈夫だよ」

窓の雨戸をあけた彼女は、術を使って白い光をつくり出し、合成樹脂製だと思しき透明な箱の中に入れた。そこら辺にある灯と変わらない明るさだ。むしろ目が痛いほどだった。

至って普通の部屋だった。一人部屋としては十分な広さの間取りである。寝台と机、台所。隅では、地下へと続いているのだろう急勾配な階段が、誘っていた。

「ここが今住んでるところ」

「ううん、地下教会なんだ」

「地下教会って、じゃああの教会の管轄なんじゃ」

「違うよおねえちゃん。こっちはアイヤース派の教会になるから。あっちの教会とは関係なし。それに、この教会はもう捨てられてるんだ」

アイヤース派の教会がこんなにも教会の傍にあるとは思わなかった。グアミ教アイヤース派といえば、ムクアリア国内ではごく少数派でしかない宗派だ。大教会の、オイヤゾーメア派とは真っ向から対立している。その上劣勢で、アイヤース派教会への破壊工作も頻繁だ。にもかかわらず、これほどまで近距離に立地している。この教会が廃れたのちに大教会が建立されたのか、それとも大教会との争いに負けたのか、ロナは知っているのだろうか。

「この下は地下聖堂につながってるよ。いろいろ面白いよ」

「ロナは何回も行ってるの」

「うん、庭みたいなものかな」

ロナは靴を脱いで寝台に立っていた。手には光球の入った箱。術による明かりを、天井からぶら下がっている半透明な板に載せた。

私は寝台の隅に腰掛けロナの姿を見上げた。アデュマばかり喋っている理由だとか、こんなところで生活している理由だとか、尋ねてはっきりさせておきたい事柄は山ほどある。だが、彼女の顔をみると、なんだか全部当たり前のことで、自然のことで、聞くこと自体やぼなことに思えてくる。だからといって、聞かないままにしておくわけにもいかなかった。隣に腰を下ろす彼女に、私は顔を向けた。

「ねえ、どうしてロナはアデュマ・マトロウィリホルしか喋らないの。古言語がつかえるのなら、他の言語も喋れるはずなのに」

「喋れるけど、アデュマなら専門家ぐらいしか分からないでしょ。アッシュ語とかムクアリア語は分かっちゃうけど、昔の言葉なら、ちゃんと勉強した人じゃないと理解できないから」

「じゃあ、私にムクアリア語の言葉教えてほしいって近寄ってきたのは」

「うそ」

ロナはムクアリア語で私に言葉した。それも流暢な喋り口である。小難しい言葉遣いでもあり、母語である私が感心してしまうほどだった。彼女の年で使う言葉づかいではなく、それこそ論文のようなかたい文章で使う言葉ばかりなのだ。

「どうして、近づこうと思ったの」

「だって、その、あの町には制裁者の大教会があるんだよ。力を持ってる人が行ったらどうなるか、分かるでしょ」

「でも、ロナだって力を、私よりも強いし」

「それは」

ロナが私とは反対側の壁に顔を背けた。このような反応は彼女からはじめて受けるものだった。彼女の左手が服をしわくちゃに握りつぶしている。手にうっすらと筋をみつけることができた。

ねえおねえちゃん、と言葉がこぼれおちた。

「おねえちゃんに近づいた本当の理由は、二つあるの。けど、一つはまだ言えない。ごめんなさい」

小さく下を向いて、肩上の動きが止まった。左手は依然として服を掴んでいて、震えさえ生まれている。ロナの体の陰から右手が伸びて、左腕の服を掴んだ。右手も布地をぐにゃぐにゃにしている。彼女の姿には、子供らしい無垢らしさが失っていた。いろいろなものに揉まれた傷だらけの体を、彼女の背に感じた。

「本当はいないのに、一目みた瞬間から、本物のおねえちゃんのように思えてきたんだ。いない、いるはずがない、そんな人のように、でもみえて」

ロナが猛烈な勢いで振り向いた。顔の横に数滴の水が飛んだ。顔面から離れた水はたちまち落ちて、彼女の目には水がしみ出てくる。その目はうねうねと波打ち、口元は唇に力が入って、唇が細くなった。

「でもおねえちゃんをだまそうと思ったわけじゃないのは分かってほしいの、あたしはただ一緒にいたいって思ったから、だから私から逃げようとしないで」

彼女の手が寝台の掛け布に落ちた。指先が寝台に食いこんで、白っぽくなっていた。華奢な指が、自身の力によってぽきっといってしまいそうだった。細くて左右にぷるぷるしているその指がいとおしくみえて、私が本当にこの子の離れ離れだった姉だと訴えているような気さえ起きる。

「お願いします、お願いします、お願いだから、あたしからはなれないで」

ロナはきっと、私を、偽物だと認識していても、本物の『おねえちゃん』としてみている。私も、目の前で泣いているロナになにかしなくちゃと考えている。できると思ったことは、一つだけ。震えている手をとって、私の手で包みこんで、目をみて。

「大丈夫だから、ね。私が一緒にいるから。逃げたりなんかしないから、安心して」

「いなくならない」

「うん、いなくならない、いるよ」

手を寝台上に戻して、私は手をロナの脇腹に回した。上半身を傾け、彼女を腕で引き寄せて、私の胸と彼女の頬を密着させた。背骨に場所を移した私の手に、力をこめた。ほら、と目下に言葉を落として、背中を手のひら全体で優しく叩く。

背中がたき火のように熱かった。ずうっと背中を火にあてていたかのような、もしくはその体のなかでたき火がはぜているかのような感じだった。

腰までもが不安でいっぱいであることを知った。目では全く気付かなかったが、機械でできないほどぶるぶる震えていた。怖がって、いた。この子は私が離れてしまうことに怯えていたのか。

この齢でこの子は、一人になることの恐怖を覚えてしまっているふうに理解できる。そうなると、昔の私のような生活はしていないことになる。一人で世間に投げ棄てられて生きてゆくとなったら、恐怖どころではない。恐怖を感じる余裕さえない。この子にはだけれども恐怖するだけの余裕が。もしや、忘れ去られていた怯えが私に出会うことによってようやく発現したのか。やはり、どんな生きざまだったのか、分からない。

私にも私を慰めてくれる存在がいたら、とふと思った。自らの体で生計を立ててきた時代に、私に手を差し伸べてくる存在がいたら。猫でもよい、何かいたら。私が温もりとして求めた言語のような、自らの意思を持たないものではなく、意思を持ったものだったら。

私はロナを助けることができる、頭に言葉が突き刺さる。今、ほんの些細なことでもいいから、きっかけを与えることができれば、彼女はより幸せな生活ができる。私が一緒にいれば、この子が変わってゆくに違いない。

「こうやって、ここにいるから、安心してよロナ」

「行かないで」

「しないよ」

「絶対に」

「うん、約束する」

「おねえちゃん」

私の背中にしがみつくロナの手が、ぎゅうっと私の服を握りしめた。彼女の腕で胴体が締めあげられる。こんなにも腕の力があったのかとびっくりしてしまうぐらい、こめられていた。

ロナの力がいきなり倍増した。左右後方からくびれを縛りあげられたかと思うと、次には前方からも縛られた。ロナの頬が私の胸に食いこんだ。みるみるまにロナの目から落ちるものが私の白い服に水色っぽい滲みをつくり、どんどん大きくしてゆく。大きな声をあげて、より腕の力を強める。既に胸のあたりが雨に打たれたかのようになっていて、下着に張り付いている。感触として決して心地よくないだろうそこに、彼女は頬を押しつけている。

本来光が射さない世界に、ロナの球が色を与えていた。外は陽が差しているのかそれとも暗くなっているかは知らない。ロナの部屋から地下の聖堂に降りたときにはまだ陽は上っていた。

「ロナ、どこか覚えてるの」

「それがさっぱり分からないの。この教会の中なのは確かなんだけど」

落ち着いたロナが、突然物探しを手伝ってほしいと、水びたしの目で私を見上げてきたのだった。なくしたものは首飾り。銀白色のばつ印の飾りが特徴的な、古いものだという。誰からもらったものかというのは、怖くて聞けなかった。

だけれども、気にならないというのは嘘である。もっと深い話がロナとはしたいし、そのためには、この子の人生というものも、多少なりとも知っていてもよいと思うのだ。私のことも話すべきだけども、話すこと全て子供向けのことではない。どうしたものか。

「部屋数はいくつなの」

「ざっと二十はあるよ」

「広いのね」

「だって、大きな教会だから」

うんと頷くほかない言葉を返されて、私は部屋の様子を眺めた。壁や天井は一面砂漆喰で塗り固められている。砂漆喰の奥は恐らく石材が積まれているのだろう。椅子までもが砂漆喰で、講壇も。砂漆喰の白に覆われた世界。白は光をはね返す色だと聞く。備え付けのあらゆるものが白いからこそ、弱い光でも地上のような明るさを確保できるということか。

この白い講堂には、三つの通路がつながっている。一つは講壇の近くにあるロナの部屋に続く、壁にできた、四隅が崩れているぐらいの穴。残り二つはちゃんとした穴で、その二つとも人が三列並んで移動できるぐらいの幅だった。この先に十八もの部屋があると思ったら、この地下教会の広さに想像だけでもたじろいでしまった。

ロナの声がかかる。私は返事をうって、講壇へと上った。上がってみたのは良いものの、講壇の上には何もない。この周辺に銀白色があるというならば、すぐに分かるというものだ。立ったままあたりを見回してみたけれど、暗い。わずかに力を抑える程度の出力で光る球を生成するよう詠唱して、ロナのそれと似た橙色を手にしてみる。それでも見当たらない。振り返って先ほどまで背を向けていた場所をみてみる。ない。腰を折って見回してみる。銀白色の輝きはみられない。

講壇を下りて、その周りの隅っこを這いつくばってみてみた。目だけではなく、指先の感覚をも動員して捜す。どれだけ時間をかけたのかは全く気にしていなくて分からないのだが、壇の周りを捜査しきるまでに、目が興味を示すものはなく、指の腹がみつけ出すのはどこから入ったのか知れない埃玉ばかりだった。もはや、私が任された場所には埃ぐらいしかなかった。

「ロナ、そっちはどう」

「やっぱりみつかんないや」

ロナが十以上並んでいる席の一番後ろから顔をのぞかせた。彼女の前にある座席の背に前腕を乗せて、腰を持ち上げた。右前腕を離して、手をついて、上半身をも立てる。

背から手を離してからの開口一番は、二手に分かれて探そうという提案である。知らない私は迷ってしまうと反論したものの、そのときには自らの場所を知らせる古代魔術を使ってと頼まれてしまった。翻訳しなれているせいか、その術をつくるための言葉がすぐに浮かぶ。頷いてしまった。

ロナはにこっと笑んで軽く横に傾げてみせて、右側の通路を行ってみる、とぽっかり開いた四角を指差した。立て続けに、首飾りをみつけたら、場所を教える術のその力を強くしたり弱くしたりして知らせて、と追加してきた。

私が、うん、と答えたときには、彼女はもう四角い口の中に走りこんでいっていた。急に部屋が薄暗くなる。一人になってはじめて、この空間の淋しさに気付いた。先ほどまでとても明るかったのは、まぎれもなく彼女の明かりによるもので、本来明かりを確保するのが難しい場所なのだ。こんな暗くて、怖くて、人から隔離されたところ。こんな孤独な場所に、私は取り残されている。ロナは一人、孤独を疾走している。

私がつくった球体が少しばかり縮んでいることに気付いた。やはり光る球体の消耗は早い。いい加減こんな場所でぼうっとしていたら探し物ができなくなってしまう。行かなければ。

通路を歩いている際の足音が淋しい。くっくっと靴底が邪気を払う。邪気を払ってくれているだろうことは問題ない。その音が通路じゅう、廊下と呼ぶべきだと思うが、私が今いる空気じゅうに響いて、何人も人がいるかのような幻に取りつかれるのだ。付け回されているのではと、不安になる。それがどうも気になって仕方がなかった。

淋しさおかしな気持ちの浮つきは、部屋に入ってからもずっと私の足かせになっていた。背中にはずっと悪寒が、さもいとおしそうになででいて、冷えきった空気はちょっとした音さえも大げさにする。石を踏んだだけでも、無機質な音が私の世界を覆いつくしてしまう。魔王の脅威が、という物語によくある大きいものによって支配されるのではない、私の世界はちっぽけな、たった一つの石片によってなされてしまうのだ。私の世界を私のものであるよう支配するためになのか、気付いたときには、ここはどこらへんかな、だの、寒いなあ、だのといった独り言が噴き出していた。

確かに手は動きを鈍くし、指先には若干の痛みがある。その痛みは、言葉を発しなければ耐えられないほど痛烈な感覚ではない。逃げている。こんな感覚は、抱かれて、それでもらった金を抱えながら、寒い街を歩いているときに思っていたことと似ている。

なぜそんなことを思い出す、と自らに問いつめた。今はロナがいるではないか。私もいい大人、そんなことにはもう慣れて平気なはずではないかという思いが更に追いつめる。目の前の捜索に昇華できるではないか。

別のことに考えが向いていたら、球体が半分ほどに縮んでしまった。球体への意識がそがれてしまったためだった。私自身に向かってため息をつき、首を横に振った。古代魔術は一度発生させたら最後、消えるまで何もできないことを数秒忘れていたらしかった。球体を小さくしないよう気をつけながらも、探し物をする。これだけでもう、他に意識を向けられる方向は、私にはないのだ。

球が四割ほどに縮こまって、光が弱くなりはじめた。今までみつけられたものは、とっさに書いた以外には表現しようのない殴り書きのある紙きれがいくつかと、誰かの小さな手記、そして埃玉だった。首飾りどころか、何か身につけるものさえ発見できない。靴下ぐらい転がっていてもよいのではとつい思って、球を小さくさせてしまうことがしばしばあった。ちょっとでも思考を逸らしたら委縮してしまうほど、球体はもろくなっていた。

早くみつけないと。いったんこの球体発生術式を使ってしまえば、少なくとも半日ぐらいは術式をする力が出ない。場所を知らせる術式ぐらいなら何とかこなせるが、十分使えたらよい方で、最悪一分も持たない可能性だって残っている。だからといって今の段階で明かりを消してしまうのは嫌だ。

四つ目の部屋に入った。砂漆喰のようなものでつくられた仕切りがいくつも並んでいて、それぞれには机となるような、これもまた砂漆喰のようなものでつくられた設備があった。橙じみた色合いにみえるから、壁の色は白系統のものだろう。アイヤース派の教えを説く教父たちはここで勉強をしたり、信徒に勉強の場を分け与えたのだろうか。

しかし、原形を留めている机は三つだけで、残りは槌で叩き割られたかのようにぐちゃぐちゃにされていた。はじめて来たときに予想したことが沸きかえしてきた。この教会は本当に、オイヤゾーメア派によって侵略されてしまったのだろうか。

ああしまった、と思ったときには、だいぶ明かりを削ってしまっていた。この期に及んで荷物の手持ち電灯を思い出す。持ってくればよかったと手短に後悔した。漏れるため息。暗さの程度が高くて、物探しにならない。

私は光を消した。砂漆喰がなくなる。真っ黒な世界。怖さの怒涛があふれ出してきた。ゆっくりと腰を下ろして、尻を地面につけて、じりじりと後退してゆく。手を使って周辺を確認しながら、背中が何かにくっつくのを、くっつくのを、くっついた。ひんやりとして、私のわなないている心をつっついてくる。怖くなってきて、声を張りあげて、位置通知術式を唱えた。

「Fomachion coknumavtil patunafow astogaltoneR kampatunafow」

私の詠唱が、何かにぶつかって耳に帰ってきた。帰還してくるものは一人でよいものが、関係ないものまで走ってくる。同じような姿をして、しかしぼやけた、靄のような音だ。はっきりとしたものは私が発した声と、戻ってきた最初の声だけ。ほかの存在は私に襲ってくる魔物だった。私が助けを求めるために発した言葉が、私を襲う生物となって牙を向けてきていると思ったら、もっと大きな声でその音を消し去ってしまいたいと思った。

叫んだところで何になる、という思いも生まれていた。今私を狙っている魔物は声によって発生したものに違いない。叫びだって声だ。大きな声なのだから、そいつはきっともっと恐ろしい存在で、私におぞましい姿を想像させながら飛びこんでくるのだ。

私は膝を抱えた。腹や胸にめりこみそうなほどに抱きしめ、後ろの壁に体重をかける。胸がつぶれて痛い。だけども、痛みと息苦しさで、恐怖は多少なりとも紛らわせることができた。

微かな音が耳に入ってきた。細かく途切れた音が素早く打ち上げられていて、それらがささやかな主張を続けていた。複数の魔物であるのか、一つとしての純粋な音なのか、全く分からなかった。

恐ろしいことに、その音が徐々に、その不明瞭さを失っていった。良い方向ではない。次第に途切れがはっきりしてきて、加えて律の均衡が崩れたくぐもり音がばらばらに飛びこんでくる。

音が止まる。間をおかずに音。

「おねえちゃんどこ、どこにいるの」

視界を白で侵す存在が出現した。色としてではなく、白っぽいだけで、具体的にどう呼べばよいのか分からない。白い何かが拡大してきているのだ。視界が真っ白で、依然としてみえるものはない。目が痛くなってきて、顔を逸らして目を閉じた。

「おねえちゃん、どこに隠れてるの」

「そこにいるのはロナ」

「私とおねえちゃんしかここにいないんだから」

「目がくらんでて」

「視界なくなっちゃってるんだ。だったらちょっと光抑えるね」

目の痛みが薄まってきて、私は目を開けた。はっきりした白が次第に薄くなってゆき、白っぽい砂漆喰が視界の中に浮き出てくる。顔を正面に向けると、仁王立ちの人の姿があった。逆光で姿がみづらい。視界の中に入る球体が相変わらず眩しい。彼女の右手をみつめて、球を避ける。

「やっぱり発光球体術式は堪えるんだね」

「ロナはどうなのよ。ずっとその球体使ってるじゃない」

「あたしは普段から使ってるから、その、慣れてるんじゃないかな」

脚の締めつけを解き放つ。膝を腕の輪っかから抜いて、地面に手をつきながらも立ち上がる。古代魔術は慣れるものなのかという言葉を呈しながら声を上げると、私のよりもはるかに輝く光に照らされた世界を目の当たりにする。

私の光で考えたとき以上に損傷が強い。机の損傷程度で終わっていると思っていたが、壁の砂漆喰が崩れているところがあった。やはり石が積んであるらしい。きっかりと四角に切られた頭大の石がたがいちがいにきっかりと重ねられていた。

「すごい壊れっぷりね。光が弱かったからここまでだとは分からなかった」

「この部屋だけこうぐっちゃぐちゃになってるの」

「でも、どうしてここだけ壊されてるのかな」

「アイヤース派はね、困った人を助けるっていう教義の点だとオイヤゾーメア派と同じなんだけど、それに加えて、たくさんの歴史を認識するっていう教義もあるんだ。人間の歩みを理解しないといけないって、いろんな世界の歴史を理解しようっていう、ちょっと変ちくりんな」

「へえ、アイヤース派にはそんな教義が」

「それを理解することが、いろいろな人を助けるのに役立つってことで、第一の教義につながってくるんだ」

ロナは更に私を宗教漬けにする。教父はその教義のためにいくつもの歴史を知っていて、教会には歴史を学ぶための場所が用意されている。最低でも二つの世界の歴史を理解しなければならないのだという。世界を理解することはすなわち、その世界に生きる人々へ救いの手を正しく差しのべることができるという。この教義はとても重要なもので、教会の学習部屋が壊されることはすなわち、その教会の崩壊を意味するのだと、長い説明のあとに示してきた。

「だから、教父たちはこの部屋を神聖な場所って考えて、襲う存在があれば、こうやって命を投げ捨ててでも守ろうとしたんだよ」

ロナはすると私の後方を指差した。彼女が示す先は私が座っていた場所の右方向を指し示していた。みてみると、白い棒が転がっている。揚げた手羽先の一番太い骨に形状が似ていた。

「私がここにはじめて来たときからあったから、たぶんずっとここに、いたんだと、思うよ」

ロナが何を言っているのか分からなかった。きれを指差して、『いた』と表現するのはいかがなものだろう。しかし、消石灰のような白さだ。死んだ珊瑚というものをかつてみたことがあったが、まさしくそのような色合いだ。

それはここの教父の骨だよ、とロナがしずくを落とすように呟いた。私は一切の考えを発生させずして納得してしまう。

「大丈夫だよ、ちゃんと魂は救ってあるし、骨は焼いたよ。でも、教父さんにとってここが大事な場所だから、ここに置いてあるんだ」

わずかな間だけ納得した私の奥底が震えあがった。私は人骨の隣に座っていたのだ。肺から空気が一気に排除されるが、慄きは声帯をもこわばらせて、叫ばせようとしなかった。私は死体の隣に座っていた。私は知るべきでないことを知ってしまった。

「怖がらなくていいんだよ、悪い人じゃないから」

袖口を引っ張られて、すうっと恐怖心が鎮まっていった。私の体の中から、袖を握りしめたそれに向かって、慄かせている何ものかが流れ出たようだった。至近距離から放出されているロナの肉声のおかげだろうか。彼女が近くにいるという、子供が大人に対して感じる安心感。

私は骨に一つ頭を下げた。首から上のみしか動かさなかった。その行動には思考が伴っていない。安心感を認識した次に考えていたことは、ロナに対する相槌だった。考えていたとはいえでも、返せたのは分かったという旨のみで、嘔吐するように出てきた言葉が、落とし物をどこに落としたかの見当はあるのか、という愚問じみたものだった。

「あるといえばあるんだけど、それに縛られてたらみつからないかもしれないから」

ロナはそう答えた。

「おねえちゃん、ここはどれぐらい探したの。まだ来たばっかり」

「結構前に来たけど、球の状態が状態だったから、あまり探せてないのと同じ状態」

「そっかあ。それじゃあ、もう一回探しなおしてみるね」

「おねがい」

ロナに振り返った。その時点で既に彼女は行動を起こしていて、部屋の中央に立っていた。腰を曲げて、隅々をみつめている。この子だけに任せておけないと思って探そうとしたら、どこかに座って休んでいてと優しい言葉を告げてきた。言葉を返しても、彼女は同じことを言い張る。私の体に術式のせいでたまっていただるさが残っているのは否定できず、その言葉に流れてしまった。

部屋の出入り口傍に腰を下ろして、忙しなく頭を動かすロナをみやった。一瞬だけ頭がぼうっとして、それから、古代魔術を用いないことに違和感を覚えた。きっと彼女の力であれば、術式を使えばほんの数秒で分かるはずだ。目の前の子は、非魔術的な動きをみせている。一分もかからないであろう作業に、相当な時間を費やしている。それに、きっと何回も捜索に入っているはずだ。幾日も使っていてもおかしくない。

どうして彼女は使わないのだ。魔術を使っていることをはっきり分かってしまうあの部屋ではあんな術を使ったにもかかわらず、術を使っても問題ないこの場所で、どうして控えるか。

ロナは膝をついてより細かい調べをしているらしかった。私からは彼女のお尻と靴底ぐらいしか捉えられなかった。腿は下衣の象牙色に覆われていて、大まかな形状しか確認することができない。

それにしても、やはり子供の体格をしている。そんな子供の体格の中に、どれほどのグアミ教に関する知識が潜んでいる。彼女は教徒なのだろうか。この点を肯定すれば、教会が嫌いという発言が疑わしくなる。古代魔術に関することだって、きっとロナが私よりもよく知っている。使ってはならないとかいう、しがらみの点ではなくて。古代魔術と呼ばれている魔術体系そのものに対する造詣が、だ。

ロナの顔が視界の中に現れた。黒目をいろいろな方向へ忙しなく向け、目と同じくらいに手をさまざまな場所へしむけていた。砂漆喰のかけらをどかしたり、埃をはらったりしている。

「ねえロナ、どうして術式で首飾りを探そうとしないのかな、理由ってあるの」

「あたしはさ、簡単なことは魔術で済ましてもいいと思ってるけど、よっぽどのことがない限り、大切なことには使わないようにしてるんだ」

「どうして。ロナはいろんなことができるんでしょ、私よりも知ってそうだし」

「だからこそ。それに、魔術の力だけじゃなくて、体力を使うような術式もあるから、あたしの体には耐えられないんだ」

私はへえと間延びした声を発してしまった。緊張感のないたるんだ声は、はじめて古代魔術が体力だけを消費することによって成立するものではないと知ったためでもあった。どうやら、私の体の中には魔術を使うための力があるらしい。

鋭さを持ちながらもその先端が丸い、というような、石同士がぶつかったときのような音がした。砂漆喰のかけらが私の足元に転がった。転がってくるのは瓦礫だけではなかった。彼女の声もだ。おねえちゃんもしかしてそのことを知らなかったの、と素晴らしいほどの洞察を披露してきたのだった。

「うん、てっきり体力だけで魔術が成り立ってるんだと思ってた。その、魔術に使える型の体力っていうのがあって、その型の体力を持ってる人が術式を使えるんだと思ってた」

「うううん、あながち間違ってないなんだよね、それ」

「へえ、あってるんだこれで」

「体力を魔術に使うための力に変換する能力がその人にあるかどうかと、その能力の強弱、これが魔術できるできないにつながってくるの。ただ術式の中には、発動にちょっとだけ魔術の力を使って、ほとんどを変換されてない生の体力に頼るものもあるから。あたしのいう体力を使う術、ってのはこのこと」

ロナは仕組みを口にしたまま、顔を床から離した。中腰になったあたりでいったん胴体の動きを止めて、辺りを見回した。口からは体力を消費する術式の危なさを語っている。腰を再び動かしはじめ、体がまっすぐになっている容姿を、私は見上げた。

五つの部屋を見終わった。首飾りはまだ発見できない。ロナの球体も、ごくわずかではあるが、光度を弱めている気がした。ロナの息が、どういうわけか荒い。はあ、はあ、という音が不気味に通路を飛び交っている。

気になって声をかけてみると、彼女は胸を大きく膨らませたり縮こまらせたりしながら、笑みを繕って私に振り向いた。小さく頷いて、再び正面へと視線を戻す。しかし、ロナの口は私に向いているらしかった。

「おねえちゃん、おねえちゃんって、神の存在を信じる」

「いや、信じてないよ」

教会の中ではあまりにも不謹慎な問いかけに思えた。だが、それに答えた直後、しまったと思った。ムクアリアだけでなくとも、宗教は神経を使う話題である。ロナはグアミを信じているようには思えないが、他の宗教を信仰しているかもしれない。

あたしは信じてるんだ、とロナが口にした刹那、私は余計神経が張りつめた。考えていたことがそのまま答えとして彼女の口から発せられていた。

「でもね、あたしは、神っていうのをそんなほかの人が思ってるようには考えてないんだ」

「ほかの人が思ってるっていうのは、信仰ってこと」

「ほんとは、きっと、たくさん魔術を使えて、けれどもその魔術の分だけ、人を大切にしてきた人がいつしか神って呼ばれるようになったんだと思うんだ。信仰とは違うよ」

なんだか私が思っていることとはだいぶ離れているようなので安心はしたのだが、ロナが喋るその言葉が難しいものに感じた。彼女の言い分はつまり、人が神であり、神というのはただの呼称にすぎない、ということだ。ただ、どうして人を大切にしてきた人だけじゃなくて、魔術という言葉がなければならないのか、と難しさの次に感じた。

訊いてみると、きっと人に慕われてて知識もあるならば術式の相談をしていたはずだ、と返答して、そうやってできたたくさんの術式が今につながっている、と思いを膨らませていた。

「だって、今よりも技術とかものがなかった時代に、いろんなことができる魔術は魅力以外の何ものでもないでしょ」

まあねえ、と私は言葉を漏らしながら、ロナの向こう側にある壁に注目した。穴が口を開けていた。立ち止まってみてみると、きっかりと四角につくられた穴が少し後方にある。その先には光が差しこんではいるものの、全体を掴むことはできなかった。

先行するロナを呼び止めて、口を指差した。伸ばしたままの腕を小刻みに振りながら、ロナは口の前にやってきた。彼女が中へ指差すと、球体が入っていった。続けて入ろうとはせずに、彼女は私に顔を向けて、にこ、と笑んでみせた。夢中になっちゃってた、とふざけた調子で喋ってから、侵入した。

中は骨が安置されていた場所よりもひどく荒れていた。床には紙らしきものが散乱して、砂漆喰であるべき地面をみることができない。三面の壁には備え付けられていた棚があったろう、しかしことごとく破壊され、枠の根元だったろう線で、ざらついた表面をさらしているのみとなっていた。ただし、棚のいくつかの段は辛うじてものが載せられる程度の形状を保っている。

「うわあ、何なのここ」

「ここはきっと、勉強して使った紙を保存しておく場所だと思う。そうじゃなきゃ、こうやってぐちゃぐちゃにしない」

ロナは向かい側の棚跡に足を進めて、中腰となった。そのあとを慌てて追うかのようにして球体がふわふわついていった。彼女の頭のすぐ傍にとどまっていて、彼女だけが昼間だった。

彼女をぼうっとみているわけにもいかない。私は入り口がある側の壁あたりから探していった。けれどもみつけられるのは歴史の記録ばかりだった。現在のムクアリア語で書かれていることから、放棄されてから世紀単位での時間経過は経っていないことは分かる。紙が日焼けしている形跡はなく、昨日か一昨日から置きっぱなしだと言われても納得してしまう。保存状態はかなりよい。

ばつ印の首飾りの、その姿を想像する。ばつ印とするのだから、十字となっているわけではないのははっきりしている。つまり交差しているところに鎖を通すための輪がつけられているわけだ。

「ロナ、その首飾りってさ、誰からもらったものなの」

「あたしがまだ人に頼られるようになる前に、空から落ちてきたの」

「空から」

「うん、空から。ただあまりにも昔だから詳しくは思い出せないんだ。首飾りが落ちてきて、私が拾って、それから、人に頼られるようになって」

不思議だ。人に頼られるという話はもう聞いたものだから別によい。空から降ってきたというのが気にかかる。古代魔術に飛行術式なるものがあったろうか。なくとも、分子移動術式をうまく使えばできるものがだ、空中に出現させることはできなかったと思う。もしできたとしても、首飾りの重さはたかが知れている。どこに落ちるかなんて変わらない。たまたまロナがいたからよかったもので、拾われるかどうかも分からない。飛ばすなんてこと、無謀だし無意味だ。

どう考えてみても、必ず引っかかりを残す。首飾りを拾えば人に頼られるなどという方程式はありえないし、人に頼られるという事後に伸びている事柄の中で、ロナはきっと何が原因かを、発見しているはずだ。彼女の話を聞いている限りは首飾り以外にありえないが。ロナが口にしている内容を疑うしかない。どこか、何かを隠している。私に言えないことがある。

「どうして首飾りを拾うだけで、人に頼られるようになるんだろうね」

「拾ってから、急に術が上手く使えるようになったの。」

「普通はそんなことあるの」

「ない、はずなんだけど、あたしが知ってる限りは。体力つけるって方法もあるけど、運動で身につけた体力は魔術のためには使いづらい体力だから、意味はあまりないんだけど」

余計おかしい。できないと理解しているのにもかかわらず、ロナには力がついたらしい。もし孤独の身だったら、できるか否かを調べる時間が厭なほどある。彼女の知識量からしてみれば、相当な勉強をしたに違いない。あれで勉強していないと言い張れば、うそ以外に説明がつかない。

いや待て。ならばどうして、その現象を調べようとしなかったのか。古代魔術を勉強してゆく途中で知ったのなら、知りたくないはずはないだろうし、一通り学び終えてから知ったとしても、そこには突きつめるだけの余裕がある。私だったら調べる。

あ、とロナが声をあげた。いつしか彼女は何とか使えそうな棚を前にして、止まっている。何かに手を伸ばしている。みえない。

「ああ、あった、おねえちゃんあったよ」

私に振り返って、指先から垂れて揺れている首飾りをみせてきた。細い鎖で、一番下にばつ印の紋章がつけられている。全てが白銀色で、かつてから身につけていた割には黒ずみがない。銀ではなく、白金でできた宝飾品らしかった。

ロナは一人で寝ると言って私を帰した。外はすっかり暗くなっているものの、先ほどまで暗がりの中にいたためにあまり夜になったという感覚がない。

街中にはまだ明かりが灯っていて、店も開いているようだった。どこからかおいしそうな香りが漂ってくるが、不思議と空腹感にすぐ結びつかなかった。街に戻ったことと、教会の領域を侵しているという現実が真っ先に私を覆った。教会の人が歩いていないか、遠くまで目を凝らしてから通りに入ったぐらいだった。

部屋に入ってからようやく、私は息を大きく漏らした。体の中に入りこんでいる空気が全て抜けていった感じだった。道で緊張しすぎたからだろうか。

部屋を見回してみる。いつもの部屋と変わりはなく、いずれの異変もみられない。息が抜けてゆく間に一瞬、部屋が荒らされているなんていう小説でよくある展開を想像してしまった自分が恥ずかしくなる。

仕事をしなければならない。気分を入れ替えようと自分に言い聞かせるが、どこかに穴があいているらしく、なんだか力が入らない。なぜかと思い返せば、ロナが言っていた紋以外に考えられない。はっきりと認識している。

私は仕事としてこの禁書を翻訳しなければならない。だが、仕事をしてしまったら異端扱いになる。盗聴もされているぐらいだ。彼女でも、四つある紋章の内の二つは使い道が分からないと言っていた。どのようなことが起きるか、さっぱり解せない。とはいうものの、気付くまでは平然と翻訳していたのだから、今更躊躇するのもどうかと思う考えもあった。翻訳はもう半分を超えて終わっていた。やるにもやらずにせよ、道に足を踏みこんでいる。ならば最後まで翻訳して、異端書が異端としてグアミ教に刻まれた根源を突きとめてやろうじゃあないか。

頬のあたりにひきつった感覚が宿る。唇は引っ張られて、右側の頬は目じり方向と横方向へ、同時に引っ張る力が生まれている。窓に反射する私の顔は、奇妙な笑顔だった。笑っている感情はなくて、しかし笑っている。私の目が怖かった。

グアミは人々に麦を与えたのち、再び国をまわった。次は食べ物とは別の問題が発生していた。ある町では金がらみの争いが、別の町では犯罪の連続で困り果てていた。グアミは、争いに対しては、互いの意見を静かに聞いて、最も適切な解決策を提示する。犯罪は高等術式を駆使して、見事に犯罪組織を一人で捕まえる。

百三十頁の中に二つの事件が事細かに書き記されていた。やはりこの点も面白い。普通だったら、三行程度の『なになにがあった』で済ませ、他にあるはずであるたくさんの事件に対する神グアミの行いや、遠くでの事件に対する言葉を記すのが定石のはずである。

どうしてこの書は、これほどまでに細かく描かれているのだろうか。まさか細かく書くことが異端につながるとでもいうのか。それでは今のグアミ教界隈の領域を書く歴史小説はことごとく異端となってしまう。別の原因がある。

読み進める。はじめの章を読み終え、次章の扉を読む間もなく飛ばす。

すごいとしかいいようがない文章だった。いきなり視点がグアミとは別の人間に変更されていた。衝撃的なその次の文章は『Zikfof vanneqin Nime Guammidieyet.』とあり、訳すと『どうにかしてGuammiを抹消したい』と記されているのである。Guammiは恐らくグアミのことだ。視点は、街での争いの当事者の一方だった。グアミによる制裁がより強い側にいる人だった。名前はマグリア。

人間が神として崇められているグアミを倒そうとする。この構図は禁忌以外の何ものでもない。教会にしてみれば排除しなければならない思想だ。私はようやくこの書物がなぜ禁書であるかの答えをみつけた。

禁書であるゆえんは理解できた。同時に、この書物にわくわくしている自分がいた。翻訳の仕事をしてはじめて宗教書を手にしたときの興奮と似ている。当時は本が持つ重厚感と威圧感、紙の厚みにその感覚を覚えたものだったが、今回は少し違う。高まりの噴き出しは内容にある。面白い。

グアミを倒そうとする勢力は増大する。序盤はマグリア一人の恨みつらみが書きつづられていて、次第にその恨みが他の人の心にもあるのではないかと考えはじめる。グアミが事件を解決した街に行ってみると、グアミに捕まった犯罪集団の生き逃れと会うことができた。グアミを倒すつもりでいることを彼に伝えると、二つ返事で受諾する。

生き逃れの人脈にはすさまじいものがあった。たちまち他の生き逃れが街に集まってくる。武器を掲げてグアミを狩ると宣言する多数。手の上で火の玉をつくって闘志を燃やす連中。偵察が売りで、武器も術もできる精鋭が少数。一番上に立つのはマグリアだ。

三分の一の文章を完了した。この部分ではやはりマグリアの心情について記された文章がかなりの割合を占める。その文章にこめられた強い感情に焦げるほどの印象を覚えた。堅苦しくない、恐らく執筆当時の口語体で書かれているのだろう、文語表現が見当たらない。宗教書でなくとも、第三クルナシア語で書かれている文章はほとんど文語文法が用いられていて、基本第三クルナシア語といえば文語表現の巨大書架である。口語表現が出てきたとしても、稀にある日記のごく一部だ。考えてみれば、この書物は口語文法で書かれた宗教書として貴重文献ではないか。グアミ教は重大な史料を隠していたということになる。

興味が際限なく飛びだしてくる。

これからグアミの許へ偵察を出し、取り押さる手はずを考えようという場面となった。手はずだけなのに、残忍な殺人方法が飛び交う。首をはねるという言葉は真っ先に出て、頭を鉄の棒で叩きまくるなど、むごたらしいものばかりだった。逆によくある、刺殺だとか銃殺はなかった。

だがマグリア一人は、部屋の隅で壁に寄りかかっているのだが、腕組みをして一言も発さずにいた。突然、彼は最初に接触した生き逃れと、集団の中で犯罪計画をつくる人とを残し、全員をグアミの捜索及び殺害に向かわせた。

部屋に残る五人。グアミに彼ら一団が勝てるかというマグリアの問いに、他の男が厳しいだろうと答える。計画の基行動するのだから、所詮は下っ端だと情報を付加して。そこでマグリアがとんでもないことを口にした。

グアミを神とする宗教の創立を告げたのだ。生き逃れたちは目をまん丸にして、マグリアをみる。その目をいったんなだめて、マグリアは計画を話してゆく。まず目的は金もうけであること。グアミが助けてくれると考えている人々はたくさんいるから、そこにつけこめばたくさんの利益を得ることができる。一団を計画も立てないで向かわせたのは、分裂が起きたと思わせるためで、そのような流れならば、グアミにやられた側が宗教を興すのも不自然ではない。グアミ殺害側と、グアミに感化された側。ただしこれは、まず一団が死ななければはじまらない。排除しなければ、宗教への妨げとなる。宗教が成功してから奴を殺せば、問題はない。

とんでもない展開に、私は思わず息を漏らした。息をつまらせる隙間もなかった。殺そうと意気こんでいたものが、ものの紙三十数枚の経過で金のための利用物と変化した。

この書物が本当に宗教書なのかが疑問に思えてきた。人々の目から遠ざけられていたマグリアの行いが真実であるとするならば、今あるグアミ教は、単なる資金調達のために生み出された宗教になる。教皇は、金にまみれた象徴ということとなる。だがあくまで真実と仮定した場合だ。単なる創作とみなせば、非常に面白い話だと思えてならない。殺すつもりでいた憎むべき対象を利用して利益を得ようと考えるまでの転換が。

急に物語の時間列が進み、文字は宗教として成立したグアミを訴えはじめた。

グアミの名をとった宗教は、たちまち人を集めるようになる。人のためになることをしろ、そのためには金も惜しむな、と教えを振りまく。もっともらしい説教をしてゆくが、現実は教会に金を寄付するよう言いふらしていたのだった。グアミを信用していた民衆はたちまち教会のために金を積み、自己満足に陥ってゆく。

ある日、教会の地下室で、五人が大声で笑いながら杯を交わしていた。片手には札束や硬貨を持ち、服装はみな共通の、蒼い教師の服装をしていた。汚らしく酒を飲む聖職者らしき姿は醜かった。

そこに来訪者がやってくる。描写によれば、来訪者が扉越しに発した黄色い声がかわいらしくて、五人全員がにやけたらしい。一人が中に入るよう促し、似た言葉を続けて他の四人が急かす。

黄色い声は中に入ってくる。明るい調子の緑で統一された鮮やかな刺繍のある服、第三が使われた書物の内容を考えればアニュッテという民族衣装だと思うが、そのような服を着た長い茶髪の女が入ってきた。一人が立ち上がって、女の許へとふらつきながらも駆け寄ってゆく。もう少しで手が触れられるというところで、しかし、女は何かを口ずさみ、刹那男は吹き飛び、反対側の壁に打ちつけられた。

立て続けに飛んでゆく男。壁にぶつかって、折れる音がする。生きているのはマグリアと彼がはじめて接触した生き逃れだけだった。

女は、覚えていますよね、と静かに言葉を発しながら、頭を持ち上げた。その顔をみて、男たちは一歩後退りする。その姿はグアミだった。グアミは、信仰うんぬんに私を使うのは構わないが金のために私を利用したとならば許すことはできない、と声を上げた。男は対してしらを切り、グアミ様が素晴らしいと思うようになったから宗教活動をしているのだと反論する。

グアミはすると、エント・マーさん、と一人の男を呼んだ。男は生き逃れに指示されてグアミ殺害に向かった一人だった。指示に向かった軍勢の一部が計画の薄さに疑問を持ち、五人の許に戻ろうとしたところで真意を知ったという。

逃げ道を失った彼らは、抵抗するための武器を持っていなかった。男は生き逃れに駆け寄り、一瞬のうちに首を切り裂いた。男を止めようとするマグリアの前に、グアミが立ちはだかる。グアミがマグリアの右肘に手を添えると、たちまちばぎぐきぼきと折れる。左肘にかざすと、同じように破壊される。手を添えなくとも、視線だけで両膝が砕けた。悶えることもできずに叫び声を上げ続ける彼に、グアミは手のひらをみせる。あなたにちょっとばかしの情けをあげたのが間違いだった、と言葉を落として、術式を施す。マグリアの胴体が昇華する。砕けることもなく、肉片が焼かれることもなく、いきなり高熱の煙として消滅したのである。目と口を思い切り開いたままの頭部だけが残った。首の切り口は焼けて固まっていた。

翻訳を書き終えた私の手が、小刻みに震えていた。翻訳するなと彼女に告げられていた書を、私はムクアリア語で表現し終えた。この書物はもはや歴史を記す機能を超えた芸術作品と形容すべきだ。もしくはグアミ教さえも恐れる創作。

紙をめくった。本文は終了しても、まだ紙が残っている。製本か何かの都合でできた余りだと思った。そういや、ここら辺はまだみたことがない。ぼたっとめくれ落ちた部分だ。

私の指が言うことを利かなくなった。余りは白くなかった。円を中心とした幾何学模様が紙面いっぱいに繰り広げられていて、異様な絵となっていた。四頁にわたって絵が描かれている。それぞれの頁によって絵の構造が異なり、最も不思議なのが、それら模様が印刷ではなく手で書かれているらしいということだった。きっかりと文字を作り出すことができた技術で、どうして丸がいびつに歪み、線ごとにむらやかすれができるか。

最後の紙に到達する。模様は描かれていなかった。二行に分けられた短い文章が中央部に載っているだけだった。一行目に作者と書かれていた。著者を知っても意味はないから流そうと思ったその刹那、その名前が目に入ってしまった。目が動かなくなってしまった。

創作の可能性がまたたく間に焼け消えた。『Ent Mar』が著者だと記されていた。

著者はグアミ側についた人間の一人だということを、短い二行が指し示している。エント・マーという名の人物が実在していることを、私に告げているのだ。

<<モドル||ススム>>