にの、にの?

Since 2009

とっぷぅあばうと小説あり□ 同人誤字脱字案内メール

オリジナル作品

かみになれない

いつの間にかブログで連載中断状態だったから、気が向いたので全文掲載。
ただし、あまりクオリティのよくない作品につき注意。
2009年ぐらいの作品

連載

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 - 継承 3.0 非移植 ライセンスの下に提供されています。

ムクアリア国北東部に位置する森で響く音は、木の葉が騒ぐ声と、私の口ずさみぐらいだったと思う。

口から出ている音色は、数日前に滞在していた町で教えてもらった歌だ。海へと歩いてゆく男たちの姿を歌った歌と記憶している。町から遠く離れた海の白い砂浜へ魚介類を求める男たちを、町で待つ妻や子供の目で歌ったものだ。食べ物をちゃんと持って帰ってくるのかを心配しながらも、夫や兄、もしくは婚約者の安全を想う声がこめられている。子供の、男たちに対するあこがれがずらりと並ぶ。

言葉は面白い。いろいろなところで似たような歌、水夫や木こり、相手を想う類の歌は、町にねづく歌としてはよくあるものだ。しかし、どれを歌っても、浮かび上がってくる情景が違う。表現は同じにもかかわらず、まるで別の世界にいるかのようだった。

言語も面白い。耳で聞くとぜんぜん言葉にしている音が異なるのにもかかわらず、別の言語と比べて、同じ表現をしているのである。もしかしたら、この言語、言葉を換えて、方言が風景描写を異なるものにしているのかもしれない。

樹の数が徐々にまばらとなった。代わりに、切り株が多くなった。これが森のど真ん中で、この先もまだ森が続くというのなら、間違いなく腰かけて空をみ上げるのだけども、今は太ももの倦怠感を我慢して進んだ方がよい。

遠くに、新しい街の姿がみえた。糧を得る機会が近づいている。

私は旅翻訳家とでもいえる仕事をしていたのかもしれない。町をめぐって古書の翻訳や、通訳の仕事を拾っては収入を得ている。あと、昔からの趣味で、歌集めがある。仕事で訪れた町で、ついでに歌を収集するといったものだ。時たま、民謡を集めている会社に需要があったりする。

町を転々として歌を歌う人はたくさんいるし、知り合いも多くいる。けれども、翻訳で町を渡ってゆく人はその人たちの中にいない。知り合いに尋ねてみても、私以外に放浪の翻訳家にあったことがないとばかりだった。

時計を見下ろした。かれこれ十年くらい使っている自動巻きの時計で、硝子窓にいくつか傷が伸びていた。

町に入った。みるからに田舎の、どれもこれも茶色い色合いをなしている街並みだった。みえるもの全てが土埃にまみれているような見た目である。人の姿は、しかし多かった。半数近くの人間は、町にそぐわない鮮やかな青の服を着ていた一目で。聖職者だと分かる。背中には白でつくられた太陽の紋章があった。あの紋章は、グアミ教という一神教のものだった。

この人の多さだと、この町には周辺の教会をまとめる大教会があるらしい。こんな寂れた町に権力が集中する教会がどうして立っているのかは疑問だが、大教会の存在自体は、私にしてはよいことだ。大教会の書庫には大抵古書が眠っている。その翻訳となれば、量にもよるが、かなりの報酬を受け取ることができる。十冊以上となれば、大抵三カ月は何をしなくとも生活できる。

そうなると、この町の生活水準が気になる。生活物資がここで調達できないとなると、翻訳作業どころではなく、ここでの生活が大変である。作業は何日のもわたる作業になるからだ。

私は重い荷物を持ったまま、生活用品店をみて回った。最低限の物資はかばんの中に入れてあるとはいうものの、何が起きるか分からない。店の水準いかんによって、大教会でまとまった報酬を得るのか、見逃すかを決めなければならない。

町の中にある店をいくつか回った結果、見た目以上に水準は高いということを認識した。大都市にある商品と変わらない品揃えだった。大教会の建っていることが影響しているのか。だが、これほどの水準ならば、地面や町並みに整備がされていてもよいはずなのだ。奇妙な町である。そもそも、私の、大教会があるという思いこみが間違っているのでは。小さい教会なのに馬鹿らしいほどに教師が多い場所かもしれない。

宿をとってから、教会に向かった。思った通り、大教会だった。なかなか重厚さを持った、いかにも力のある教会といった雰囲気だった。町にはそぐわない空気は然りである、この町の茶色さには、荘厳な、よりも重苦しい雰囲気にしかならない。

一番大きな扉を見上げた。私の身長の軽く三倍はあると思える。まだ現在のムクアリア語が用いられていない時代には、この周辺に有力な人物がいたのかもしれない。これほどの扉をつくらせられるのだから、よっぽどだ。

大きな扉のほうを改めてみた。開閉禁止という掲示がされていた。なぜだろう、グアミ教の教会であれば、一番大きい扉は、昼夜問わず開かれて、人々を受け入れているのが常だ。それなのにこの扉は、なぜなのだろう。人を追い出すような強さを持っている。この中に入ってはならないような、もう戻ることができないような気がする。

だけれども、報酬が待っていることを考えれば、入れる場所を探さなければという気持ちがはやる。右側を覗きこんで、みつからなくて、扉を横切って、左側を覗きこんだ。民家にあるような、開き戸だった。戸の扉は、室内側に折れていた。ちゃんと門が開いていて、グアミ教らしさがにじんでいるような気がした。ほっとした。

中はかなり大きな堂だった。二列数行で並ぶ長椅子には、まばらに人が座っていて、正面の講壇に頭を垂れていた。真剣に祈っている人が大半だと思うが、私の立ち位置すぐ傍に座っている男は本を読んでいた。奥に座っている女は、頭が前後にうつらうつらとしていた。

空気は大教会なのだが、大教会にしては簡素なつくりだ。柱のいたるところにあってもよい荘厳な装飾が、施されていない。ただ石を削り出した丸い柱である。側面の壁も、大教会としての威厳を誇示することはなかった。彫り物の一つか二つは欲しい。教会の中だといわれても、この物足りなさだ、疑念を向けてしまうだろう。

内装に興味を持つのはこの程度にしよう。そろそろ教師の姿を探さなければならない。ここでグアミ教の教えを説く人はどこにいるのか。すぐさま思い浮かぶのは講壇の左側だ。扉があるから、一般的様式ならば、もっと豪華だが、その扉の先に教師がいるはずである。

私は扉の前まで歩き、戸を叩いた。堂の四隅を突くように音が広がってゆく。弱く叩いたつもりなのに、大きく響く。たちまち顔が熱を放出した。

戸が横に滑った。ひげを蓄えた男が目の前にいた。胴体から上をみる限り、細い以外に感じ取れるものはなかった。

「何でしょうか、個人的説教をご所望ですかね」

いえ、と私は答えた。久しく使っているコートの内懐から名刺を取り出した。厚みがない。補充しなくちゃと思いながらも、厚紙を差し出した。

「こちらの教会に、翻訳されていない古書や、翻訳の必要がある書物はございますか」

「町歩きの翻訳家、ですか」

男は顔面を名詞に向けつつ、私の顔を上目で睨みつけてきた。あの目は、私を疑っていた。目の奥深くから弓矢で狙いを定めている。

「どの言葉なら」

「古ムクアリア語標準語と各方言。あと、古ラナシリア語、アクトゥ・マトロウィリホル、アデュマ・マトロウィリホル、第一クルナシア語ですね。現代言語ですと、ムクアリア語の各方言、アッシュ語、ラナシリア語です。報酬は、ものをみてからでなければ判断しかねますが、成功報酬としていただくのみです」

このような形で交渉するのはいつものこととはいえ、相手は大教会である。ここで失敗すれば、この教会が統べている全ての教会で仕事ができなくなる。一歩ほど譲歩しなければならない。いつもはとる前金は、あきらめざるを得なかった。

「翻訳してもらいたい本はいくつかあるのですが、しかし、あなたの技術がいかほどかなのか」

「教皇の下で、三冊の、アデュマ・マトロウィリホルにて書かれたグアミ教中期教典を翻訳させていただきました」

果たしてこの男は知っているのだろうか。数ある古代言語の中でも、アデュマ・マトロウィリホルが最も読み解くのが難しい。文としての文法があまりに少なすぎて、どれをどのように翻訳すれば分からなくなるというのが並の翻訳家が垂れる文句だ。最初に説明した際には聞き流していた印象なので、分からないかもしれない。

男は口をまん丸に開いて、上半身をわずかにのけぞらせて、ほう、と声を上げた。教師は目を、疑心の目から一変させて、きらきらと輝かせた。

「教皇のもとで、ですか。さぞかし優秀な翻訳家なのでしょう、さあ、こちらへどうぞ」

気持ちが悪いほどに口角がつり上がっていた。

教師がいる部屋から更に歩いて、地下へと下りた。携行用の白熱灯を私とその教師とで一つずつ持ちながら、書庫に足を踏み入れた。薄暗くて、奥に何があるのか分からない。書庫だけだと信じたい。場所によっては、ときどき拷問道具が転がっていたりする。正直みていられない。あれがあるだけで、だいぶ気分がめいる。

両側を書架で囲まれていることに気付いた。どこをみても見慣れた厚さの書物で、革装丁がなされている。金を圧して名が刻まれていた。

「こちらの本になります」

「合わせて四冊ですか」

「ええ、他の教会から、中身は分からないがとりあえず保管してほしい、と。みて分かるでしょう、書架はいっぱいなので、補完すべきかを見定めたいのです」

既に並べられている背から視線を移して、教師の持つランプの傍を見上げた。書架の横にある机で、本が積まれていた。背中の金色をみる限り、私が読める言語である。

「一冊とってもらっても」

「構いませんよ」

男は左手で、一番上の本を渡してきた。厚さはちょうど親指と人差し指との根元間と同じぐらいの幅で、普段ならば少しばかり重いぐらいに感じるのだが、妙に重かった。視界の中心に据わっている、隅の金具が原因だろう。金色の金具と、本文用紙の黄色さが同じ色にみえた。

男に灯を渡して、本を開いた。流し読んでみて、閉じた。この程度なら困ることなく翻訳できる。楽にできる量だろう。意外と字体が大きかった。他の古書もみせてもらったが、三つとも最初にみた物と似た字だった。

「これなら、二週間あれば翻訳できますね」

「二週間と。なんと、そんな早くできるもので」

「私はこもって翻訳しますから、その分早いんです。それに、私は辞書使わないですし」

「全部覚えてらっしゃるのですか」

「そうですね。当時の人々は、辞書を片手に会話してたわけじゃないでしょう」

教師の驚駭をあおるように私はつけたした。教師は余計丸く口を開けて、私に驚くに違いない。大御所と呼ばれるような学者だって、辞書は手放せない。この教師も、そのような翻訳家か、ひどい翻訳家しかみたことはないのではないだろうか。もとい、私は方言を中心に理解している人間であるゆえに、いわゆる標準的な古語を理解する彼らとは比べられないかもしれない。

男の表情をみると、思った通りの顔だった。口元を笑ませて印象をよくしてから、手中にある本を小脇に抱えて、男から灯りを回収した。灯りとともに、原書に対する好奇心がやってきた。読めることまでは判断したものの、詳しい中身までは理解していない。気になる。韻文でないのは確かだった。気になる。古い文学か、グアミ教関連の書物か。はたまた、別の宗教に関するものなのか。どこかの禁に触れるような本だったら面白い。

この仕事は引き受けよう。さて、この大教会からいくら稼ごう。言語は恐らくアデュマ・マトロウィリホルで間違いないだろうし、この分量である。凡な業者では十六万ムクアリアエーゲンが妥当といったところか。しかし、私は個人で、その上どこかの会社と契約を交わしているわけでもない。今後も仕事をとれるようにしようと考えれば、もう少し価を抑えるべきか。十四万ムクアリアエーゲン程度に抑えておこう。

最初の書物はグアミ教布教に関する指導書だった。導入としてグアミ教が人々にとってどれだけ有益かを説き、かつほかの宗教尊重することも重要であると強調していた。以前も読んだことのある書物だ、一度でなく何度もである、処分したってとりわけ問題はないものだ。どこでもみつかっている書物で、私が翻訳しなくとも、別の誰かが既にやっているだろう。一章分を訳し終えたら筆を止めようと考えた。

指導書の訳と原書を携え、私は大教会に出向いた。地味な内装に目をやることもなしに、教師の下へと足を進めた。長椅子に座っている人数が減っているような気がした。本を読んでいた人は、うとうとしていた。

教師に会った。翻訳して考えたことをすべて報告し、処分を勧めた。教師は本の表紙を見下ろしながら、私を鋭くみた。処分を勧める理由を求めてきた。言葉が分からない彼でも分かるよう、私は説明した。

「ですが、最初の章だけを読んだだけで分かるものですか」

「基本的にこのような指導書は中央で製版されて、その版は大教会をまとめる教会に配布、印刷が行われていました。それぞれどこで刷られたものかを区別するため、最初の章だけは基本的内容だけを決めて、文章自体は各教会にゆだねるという方法をとっていたんです。この本の文章は、南部ムクアリアの教会を統べていたアレゴン教会による版で刷られたものと一致します」

「アレゴン教会」

「ご存じないはずないですよね」

「はい」

「なら、分かりますよね。ええと、そこに問い合わせれば、たぶん翻訳があるかと思いますよ。なくても、どこかしらにあるでしょうしね」

アレゴン教会の名を出すだけで、すぐに納得してもらえたようだった。私が言葉をつけることなく、彼は別の本を差し出してきた。はじめとはまったく違う表情だった。鋭い目は水滴のような形状に変化し、唇は微かに隙間をつくっている。額のしわもない。この表情を浮かべているならば、信用してくれたとみなしてもよいだろう。ならば、更に成功報酬を引き下げることはしなくてもよさそうだ。

宿へと戻る道は寒かった。人通りがなく、街灯が大人しく道を灯していた。風が前から後方へと歩いている。灯が凍えて、小さい灯りが余計小さくなって、しまいには玉のようになってしまうような想像が駆け巡った。

立ち止まった。みている世界の右側に建つ街灯にて、女の子が寄りかかっていた。薄い桃色の袖がない、暑い時期に着るような装いだった。脚を斜めにして、重心をすっかり灯の柱に任せていた。

あの子は何をしているのだろうと、疑問を持った。寒い中に、小さな女の子が一人。道を見下ろしながら、ずっと佇んでいる。日が暮れてだいぶ時間が経っているのだ。幼い子供が一人で立ち止まっているような時間ではない。

「ねえ、そこのきみ」

女の子はぴくんと首をすくめたようになって、私を見上げてきた。勢いで舞った髪が、彼の頬を叩き、飛び跳ねた。決して大きくなく、目尻の鋭さの目立つ目だった。鼻は高く、唇は薄かった。子供らしさとは程遠い顔立ちだった。

「こんなところで、何してるの」

女の子が、目を二度またたいた。

「おうちはどこなのかな。送ってあげようか」

女の子の視線が、下に向いた気がした。

家出、という言葉がさまざまな言語の表現で出てきた。『Owthows』『[ha]ifu^mu』『Autoc』『Autocg』。家出をして、駆けこむ場所もないのかもしれない。夜は特に冷えるのだ、子供がこんな薄着で外にいれば死んでしまう。このまま放っておくのはかわいそうだ。

「ねえ、すぐそこの教会まで一緒に行きましょう、きっと泊めてくれるはずだから」

首を激しく横に振った。上半身を曲げて柱から離したかと思うと、向こうへ走り去ってしまった。瞬く間に黒くなって、姿をくらましてしまった。

一瞬、追いかけなくちゃ、と心がはやしたてた。彼女はどこに行ってしまうのだろうか。

いつしか脚が動いていた。左腕で抱きかかえている古書を邪魔に思いながら、女の子が走っていった方向へと駆けだしていた。揺れる乳房が痛い。夢中になりながら、走っているということに何も考えないでいる私が、しかし考えていないことにさえ気づいている私が、少し怖かった。

通りの果てまで来てしまった。目の前は街灯の凍えた明かりさえもない。本当に暗かった。肝心の彼女はみつけられない。辺りを見回しても、すっかり暗い家が立ち並んでいるだけで、人の存在を感じることができない。

まさか、この闇の先に消えてしまったとでもいうのだろうか。私が来た地点とは別の位置にある、目の前にあるは全く知らない場所である。このまま追いかければ、私までもが迷ってしまう。

時計をみると、夜中というわけではないが、陽が沈んでからそれなりの時がたっていた。

私は闇を背にした。どのような道かを知っている分明るい、通りを戻った。

部屋へと戻って机上に本を置いても、表紙を開く気になれなかった。私の中にある街灯か何かの柱に、彼女が寄りかかって何かを待っているようにみえて仕方がない。彼女は私の中でも俯いて、一人寒そうな格好でいるのだ。ずっと私の中にあって、だからといって、私にあからさまな行動を示すわけでもない。あたかも何らかの意図があって、私に要求するものがあるかのようである。

あの子は今どうしているのだろう。ちゃんと家に帰ったのだろうか。家の中に飛びこんで、掛け布団にくるまっているだろうか。それとも、温かい料理を食べているだろうか。空想の世界にいる彼女に問いかけてみる。だけれども、返ってくるのは同じ答えばかりで、私の要求を満たすことはなかった。

寒さに意識が少しばかり移った。両手を組んでみると、かなり冷たくなっていた。左手にみえる窓に目を向けると、小さな水滴が付いていた。ああ寒い、暖を取りたい、と考えて周りを見回してみたが、暖をとることができるとなると、毛布ぐらいしかない。でも、今すぐ暖かさを感じたい。毛布では、何分かじっとしていなければならない。翻訳作業に支障が出る。

私は椅子ごと机から離れて、適当なところで椅子の脚を下ろした。冷たい手の、手の平を上にして、互いを横にくっつけた。目を閉じて、視界をまっくらにする。

「Samanasne mitgmaneal hanfheon」

手の平が暖かみを感じた。ゆっくりと目を開ける。手でできあがった器に載っているものは橙色の炎だった。卵大の大きさで、とがった先端をいろんな方向にぱたぱた振っている。この状況を人にみられるのは困るが、恐らく誰もみていないはずだ。手を瞬く間に温めてくれて、顔にまでその温もりが伝わってくる。ああ、何て心地よい。

私は快楽と同時に、重く沈んだ感覚が手の平にのしかかっていることを自覚していた。この炎こそが、私をこういった仕事へと差し向けた張本人だからだった。この魔法の炎によって、私はグアミ教の異端だと言われて家を追い出され、学校からも籍を消され、男や女に金目的で抱かれ、そして『抱きに来た』人たちからの対価を用いて言語を習得した。

私の十数年が一瞬に駆け巡って、炎を委縮させてしまった。温かみも激減。私が使える古代魔術とやらはどうやら心理状態と深く関わるらしく、これほどの委縮をみると納得してしまう。卵は卵でも、うずらの卵。かなり弱っている。

私は卵に息を吹きかけた。なびいて抵抗することもなく、消えた。

そうだ、歌いに行こう。酒場ならまだやっているだろうし、そこなら歌えるかもしれない。酒に酔った人しかいないだろうが、それでも楽しく歌える。歌を聴く人が全員酔っていたって、私にとってしてみれば、気になることではない。楽しく歌えればそれで十分だ。

この町の酒場は大教会のすぐ近くにあった。中に入ると、外の寒さとは一変して、明るくて温かく、そして酒臭い空気が支配していた。席はどれも埋まり、それぞれの席でそれぞれの楽しみ方で酒を飲んでいた。大声を上げながら話をしている集まりがいたり、酒を片手に議論を戦わせている背広の一団がいたり、女と一緒にしゃれたものを飲む男、悪酔いしている女、など。中には座る席がなくて、立って飲んでいる人もいる。

男が寄って来た。

「お客さん、申し訳ないんだが、この通り満員以上の状態でね、立ちながら飲んでもらうことになるんだが」

「構いませんよ」

この男が店主に違いない。決してきれいではない身なりは、酒を片手にしているか、大衆向けの酒場にいなければ似合わないものだった。漆黒の正装を着て酒の調合をしているような姿は、この場所には全くふさわしくない。

「あの、歌を歌わせてもらえませんか」

「歌とは」

「私、ちょっと歌いたくなりまして」

「まさか、そんなこと言って、一曲歌ったら、聞いたんだからお金ちょうだいだとか言うんじゃないだろうね」

「そんなんじゃありません、ただ、歌いたくなりまして、舞台を貸していただけるのなら、それで結構です」

「まあいいが。本来なら歌い手をよんで歌わせるためのものなんだからね

店主の表情はあまりよくなかった。自分の領地でずかずかはいって歌おうとするなと脅す尖った目をして、口から吐き出される言葉は鈍器のような印象だった。刺して動きを止めるのではなく、殴りつくして抵抗できないようにするつもりらしい。だが、あいにく私は昔から殴りつくされている、言葉で殴るなんて行動は一切効かない。単に楽しむだけ。

隅にある小さな舞台に立ってから、何をしようか思案をはじめた。調子づいている人もいれば、静かに飲んでいる人もいる。人数の偏りがみられない。これではどちらかに調子を合わせることができない。そうなると、自分の一番を歌うしかないが、曲はごまんと記憶している。そこから適切な一番である。特に最初の歌は重要だ。

隣町で聞いた歌を引っ張ってみよう。明るい調子の曲で、まさしく酒が飲める平穏とその楽しさを表現した歌だったと思う。これなら、きっとこれなら盛り上がる。私の練習にもよい。まだ人前で歌っていない曲。最初に歌うものとしてうってつけだ。でも、はじめてだから、ちょっぴり緊張する。

私に視線を向けていない彼らに向けて、頭を下げた。腰を深く折って、一呼吸した。体をまっすぐにして、目を閉じた。お腹に息を貯めこむ。確か、最初の音は低めの音程だったか。

喧騒の中に、まとまった声を押しこんでゆく。はじめは大人しく、音を捉えてゆくごとに音量を大きくしてゆき。彼らが聞く音の中へ、さりげなく音楽を挿した。

歌の舞台は戦争の終わった国だった。確か、戦争した国の国境沿いにある町の酒場の中の出来事を語る。恐らく、前にいた町の周辺が、国境地帯だったのか、他の要因でそのような状況に触れることがあったのだろう。

語り手は敗戦国側の兵士だった。何があって酒場にいるのかは不明。ただ酒場の隅で一人、安い酒を飲んでいたことだけは分かる。周りの騒がしい戦勝国軍兵士をみながら酒を飲んでいる。彼がみた兵士の表情は勝ち誇った笑顔だ、どれほど憎たらしく思えたか。だが、いらついているように感じられる表情はしていないらしかった。

そこに、とある兵士が座れる場所を求めてやって来た。勝者の服を着ていた。男は敗者に尋ねるが、彼は答えない。すると、座る、と酒を机に置き、腰を下ろす。

敗者は酒を一気に飲み干すと、席を立つ。向こう側にいる男が立ち上がる彼を呼び止め、店主に酒を注文する。彼は、これ以上酔ってはしょうがないと、見下ろしながら言葉するが、対して、自分は酒には弱いと答える。酒を飲むことなら君の勝ちだと続ける。

酒に弱い男は、酒飲みの口角に宿った笑みを見上げつつ、茶色い液体を口にふくんだ。戦争は終わったんだと呟いた。もう敵味方は関係ないさ、とも。

すると、酒飲みは透明な酒の入った杯を男の前に掲げた。男が杯を彼のそれにぶつける。杯が離れたのちは、酔いつぶれるまで飲み騒ぐ。

そんな歌だった。かなり明るい調子で。戦争の背景があることを忘れてしまうほどに軽い足取りの歌である。

いつしか、騒がしい声がいなくなっていた。何かが体内に入りこもうとする感覚が前面いっぱいに広がった。静かな余韻が流れる。

少し怖くなってきた。この静けさは一体何なのか。やはり彼らには、都会の『今どき』が適曲だったに違いない。街で集めるために民謡は得意だが、都会で売られているような曲はさっぱり分からないのだ。徐々に前向きな考えが私の下から数メートル離れるのを感じ取った。頭を下げて、視線から逃げた。

拍手という名で前向きな考えが帰ってきた。拍手の中に口笛も飛ぶ。私はすぐさま顔をあげて、笑みを浮かべてみせた。この調子なら、まだ歌えるし、店主の機嫌を取ることもできそうだ。期待はしていないが、臨時収入があるかもしれない。

男の声が飛んできた。

「おい嬢ちゃん、早く次の歌にいってくれよ。何の歌かは知らんが、他のも聞きたい」

この声がかかれば、私の勝ちだ。彼らはもう逃れることはできない。店主だって、黙って杯を拭いているのが今の姿だが、私に顔を向けてくることも時間の問題であるはずだ。今までそうであったのだから、店主にも勝てるはずだ。別に歌が仕事ではないのに、店主と勝負している自分が面白かった。

陽が昇った頃になってようやく、翻訳作業を再開できた。相当な量の歌を歌った気がするが、合間に酒を飲んだり歌の背景を解説したりしていたため、よく覚えてはいない。だが、この町の酒がそれほど美味しいと感じられるものではないことだけは覚えている。口に含んだときに鼻へと抜ける香りが、特に悪かった。

本の入り口を開く。見返しに記された文章を読む。アデュマ・アトロウィリホルで間違いはなかった。文体からして、散文である。翻訳する必要なしと評価した書物でもない。はじめてみる導入部だった。

この革製本に潜んでいる文章へ興味が湧いてきた。鼻の中に残っていたひどい匂いが一気に消え去る。代わりに、古紙ならではの焦げたような香りが充満した。その空気を肺に押しこむ。頭がムクアリア標準語訳に向けて動きはじめた気がした。

本の隣にある万年筆と蒼墨が詰めてある瓶、蒼墨で汚れた布、記録用に用いている紙を確認した。万年筆に蒼墨を吸入させながら、この本に対する予想を巡らせてみる。教会にあるような本だから、宗教関連の文書。それとも、宗教讃美の古典文学。まさかとは思うが、宗教批判の文学が目の前にあるのかもしれない。

万年筆内に蒼墨を充填し終え、筆先を布で拭った。布が蒼い墨で汚れ、次第に黒く変色する。そろそろ筆の溝にも墨がたまったことだろう。全ての準備が完成した。

本への扉を更に開く。見返しの先には本文があった。ひと固まりを読んで、ムクアリア語に変換し、書き記す。墨の蒼さが黒くなる前に、次のまとまりを読む。墨が乾いて黒くなった頃合いに、再び記す。読んで記す。読んで、記す。読んで。読んで。記す。

ふと顔を上げた。いつの間にか書物たちを照明が照らしている。誰がつけたのだろうか、いつ頃つけたのだろうか。電気の無駄だと思って消した。だが、消した途端に手の姿がみえなくなって、本の文字もみることができない。全く暗くなっている。窓に目を向けると、みっちり覆っている結露で外がみえなかった。

私は没頭していたことに気付いた。この本の世界に埋まって眠っていたらしい。灯りを自bんでつけたことも忘れたのである。番号の振ってある記録用紙が床に散乱していた。机のある紙の番号は百六十二番だった。原本の読了位置はちょうど半分らしく、本の厚さが半分ぐらいに分かれていた。

翻訳に対する情熱が、床の紙へ逸れた。量が増える前に、紙をまとめなければ。合計三百枚を超えるのだろうから、今のうちにやっておく方が安全であろう。最初は一番の紙だ。さあ、数時間前に書き終えた紙はどこだ。電灯をつけ、足を紙に囲まれた状況であたりを見渡した。足元に二番目の紙があり、まずそれを手にした。それから、ええと、おっと、目当てのものがあった。

内容は純粋な文学だった。いや、純粋な文学と定義してよいか私には分からない。芸術的な昇華はなされているように思えるのだが、内容が宗教における異端を描いているため、これが戒めのためにつくられたものの可能性もあった。私はとりあえず、純文学として読んだ。

主人公はとある男だった。名前は語られない。読了時点までは少なくとも、男としか呼ばれていない。男が敬虔なグアミ教信者であることの描写からその物語ははじまった。男はグアミ教の理念にのっとりたくさんの困った人を助けていた。困った人をたくさん助けることにより、グアミ教の神から『奇跡』という名目で恩恵が受けられると信じられているからだ。だが、その男に恩恵はなかなか来ない。そこに、とある者が現れる。自らを『悪魔』という意味の名だと告げた。

その場面までは拾い終えた。残りはあと十七枚である。ついに地面に横たわる紙はまばらになってきた。

悪魔という言葉はあっても、ムクアリアにてアデュマ・マトロウィリホルが用いられていた年代においては、ただの『悪い人』という概念でしか用いられていなかった。男はそのため、謙遜か何かでそう名乗っているのだろうと考えて接近した、という文がみられた。悪魔は、彼に奇跡は来ないと告げる。その奇跡は全て、教会の人間が吸い取ってしまうのだ、と説いたのだった。

百六十一番の紙を拾い上げた。これから先は私も知らない。だが、あと二十四時間すれば全てを知ることができる。気になることはたくさんある。手の中の紙束の如く、それこそこの一枚一枚に問題が隠されているかもしれない。男としか名乗らない理由だとか、自らはわざわざ悪魔と名乗ったのか。この時期に悪魔という意味合いの言葉はたくさんあるはずなのに、どうしてあまり使うことのない語を使ったのか。読むこと自体も、翻訳も楽しい、久しぶりだ。

翻訳を終えたときには、夜が更けていた。人の生活騒音が聞こえはじめている。裏表紙を閉じて、席を立つ。腰が痛い。腰を伸ばした状態で立てなくなった。なるべく痛みがないよう、徐々に腰を伸ばしてゆき、よし、立てた。窓に歩いてゆき、下を見下ろした。いつもだったらこのままの勢いで翻訳を続けるのだが、体を洗って、少しだけ寝たかった。翻訳を失った私の口や鼻の中に、まずい酒の匂いが充満しはじめていたのだった。

結露でびしょびしょの窓に、中指を這わせた。水の出っ張りが壊れて、外の風景がぼやけているものの、みやすくなる。窓は無駄に冷たい。二重にするなり厚くするなりすれば、もっと断熱効果は高まるように思える。朝は特に寒い。

限られた視界の中に、寒さを考えている余裕を失わせるものがあった。桃色の薄い衣服を着た茶髪の女の子。真夜中にみたその子に間違いない。その子は私の部屋を見上げていて、私と目が合っている。

やはりあの子はさまよっていたのか、戻れたのか、が疑問だった。別段知り合いでもないのに、ここまで考えてしまうのは、子供だからという理由だけでは片づけられそうにない。だからといって、私がその子に対して特別な感情を抱いているわけでもないと信じている。

急ぎ足で外に出た。同じ場所から女の子は動いていなかった。私に顔を向けて、小さく笑みを浮かべている。私を待っていたかのようである。彼女のすぐ傍で立ち止まって、中腰になり、視線の高さを合わせた。

「ねえ君、昨日の子だよね」

頷く女の子。

「お家には帰れたのかな」

首を横に振った。

「だめだよ、ちゃんとお家に帰らないと。君のお母さんとかお父さんが心配しててるよ」

女の子はしかし、首で私の提案を否定してきた。声を発して否定をしない姿が不思議に思えてくる。過去に、喋ることができない人に出会ったことがある、そのような症状を持つ少女なのだろうか。さすれば、声を発さないワケが分かる。

女の子が私に迫ってきた。同時に腕を広げてきた。彼女の微笑みが目と鼻の先となる。手首から先が視界から消える。前腕も徐々にいなくなっていった。

私にはよく分からなかった。彼女が何をしているのか予測がつかなかった。答えとなるもの自体が浮かばなかった。

裏の首に手が回る。二の腕の内側に悪寒が走って皮膚がひきつった。私に鳥肌を立たせた次に、気持ち程度の力で私の体を引き寄せる。微動だにしない私の体に、彼女が接近した。頬を摺り寄せてくる。私と彼女との頬の間に挟まった、彼女の髪が邪魔だった。

「とっても温かい」

私はその刹那、確実に銅像と化していた。女の子の頬が思った以上に冷たかったこともあるが、それ以上に、喋った言葉がムクアリア語でないことが大きかった。他国の言語であればまだ理解できる。だが、彼女が喋った音は、確実に今一般で使われている言語ではなかった。私の知識ではアデュマ・マトロウィリホルに違いなかった。

おねえちゃんも家ないの、と無垢な声で尋ねてきた。どうしておねえちゃんは家じゃなくて宿に住んでるの、と。思わず口元の力を緩ませてしまいそうになるが、何とか押さえこんで微笑程度にまとめた。同じ言語を以て答える。

「おねえちゃんは住んでるわけじゃないの、ここにお仕事で来てるの」

「何の仕事なの」

「昔の本を、今の人が読めるようにしたりする仕事」

「じゃあ、今の本を昔の人が読めるようにもできるってことなの」

「できないことはないけど」

この子の頭の中には、何があるのだろう。あどけない見た目の口から、今の本を昔の言語に翻訳できるのかという発想が浮かぶとは思えない。ある意味では、不気味だ。彼女は本当に少女という表現だけで、幼い女の子と訳してしまってならない気がする。簡単に『Yangal』なり『Junirlev』『Junirleschev』などとしてよいわけがない。だからといって、しっくりくる言葉をみつけることもできない。変な子だ。

彼女が耳元で囁いてきた。

「だったら、やってもらってもいいかな。気になるものがあるの」

「それよりも、君のお父さんとお母さんはどうしたのかな」

「いないよ、あたしもおねえちゃんと同じ、家もないんだよ」

「ないって」

「うん、家なんてないよ」

かくいう女の子の表情に、悲しさは感じられなかった。声に悲痛を訴えかける強力な性質もなく、私との会話を楽しんでいるような目や口元である。彼女が分からない。この子はどう私に扱ってもらいたいのだろう、と疑問しか湧いてこなかった。

「あたしは、大丈夫なんだ、家がなくったって」

扱いを考えながら女の子をみつめていると、彼女は急ににっこりと笑みを浮かべた。彼女の澄んだ目に、私の全部が素っ裸にされているような気分だった。だが、大丈夫だとは一体どうしてか。身寄りのない、本来孤児院かどこかに入るべき子なのか。

「お家がないって、どうして」

「家は必要ないから、ないの」

「必要ないって言っても」

必要ないんだ、女の子は笑みを浮かべたまま告げた。ますます不気味である。だからといって、放っておく気になるわけがない。昨日の結露するほどの夜の中、この子は薄着で外にいたのだ。そんな彼女が、今、目の前で凍える様子なく、柔和な表情をみせている。生きていることさえ奇妙だ。凍え死んでいたって疑問は浮かばない。

もしかしたら、家はなくとも、寒さをしのぐ場所があるのかもしれない。死んでもおかしくない寒さはしのげても、それでもかなり寒いはずだ。子供が笑みを浮かべて我慢できるほどのものではないだろうに。しかし、教会となれば話は別。安全だし温かい。でも、彼女は私の提案を拒否して消えたのである。教会に行っていないのは確かだ。

首元を滑らせるように手を離した。離れきった手は彼女の背後に回って、いったん笑みをたたえる。次の刹那、私の右手を奪った。

「ねえおねえちゃん、お願いしたいもの、いい? 」

女の子のお願いは、絵本とか、児童書などという『子供向け』のものではなかった。子供どころか、大人も読まないような本である。私も読んだことのない分野で、恐らくこれからも、古書以外で読むことはない分野だった。

『文化変遷に伴う心理の変化』という、心理学関係と思われる専門書だ。なかなかの価がした。財布の中から貨幣が店員へ渡ってゆく様子に、頭の中で泣いたほどだった。隣の女の子に目を向けると、いかにも重そうな本を輝く目で見上げていた。

翻訳をしてほしいということはつまり、このかたそうな文章をアデュマ・マトロウィリホルに変換しなければならない。私にはその逆翻訳への自信がなかった。私が持つアデュマ・マトロウィリホルよりもむしろ、ムクアリア語の語彙が乏しいのかもしれない。

「ねえ、君、それを全部翻訳すればいいのかな」

「ううん、大体は分かるんだけど、ときどき分からないとこがあったりするから、そのとき教えてくれたらいいなあって。あと、お金」

ムクアリア人とする会話ではない。この女の子がアデュマ・マトロウィリホルを喋っていて、ムクアリア語が理解しきれていない状況自体、時代がおかしい。アデュマ・マトロウィリホルは言語としては五百年ほど昔の国家で公用語とされていたのが最後で、北方の国に残る魔術の詠唱文法としてしか現在その名をみない。

私と彼女との間にある歴史の壁を考えていたところに、彼女の言葉がかかった。私が宿泊している部屋にしばらくいてもよいかというものだった。彼女の幼い声に、私の頭は間をおかずに動いた。少なくとも宿の部屋は屋外よりも暖かい、なにより、この子の秘密が――どうしてアデュマ・マトロウィリホル話者で、身寄りがなく、連続して私の前に現れたのかが、分かるかもしれないと思った。

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